2 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:38:42.16 ID:+7p+g6sB0
栄 螺 鬼 の 渦
◎栄螺鬼(さざえおに)――――
http://up3.viploader.net/ippan/src/vlippan185449.jpg
雀海に入てはまぐりとなり
田鼠化して鶉となるためしも
あれば造化のなすところ
さざえも鬼になるまじき
ものにあらずと
夢心におもひぬ
―――――画図百器徒然袋・上
鳥山石燕/天明四年
3 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:39:51.77 ID:+7p+g6sB0
1
何一つ――。
変わらない。
自分も、他人も。
獣も、草木も、器物も。
時さえも。
少しも変化することなく、ただ続くばかりである。
磯野カツオはそんなことを考えて、脚の痺れを忘れようとしていた。
4 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:40:41.67 ID:+7p+g6sB0
ずっと前からこうして正座をしているように思う。その証拠に脚が痺れている。
一方で、自分が目を覚ましてからまだ一時間も経っていないようにも思う。
起きたばかりだとするならば――今は朝か。或いは昼寝の後、夕方なのだろうか。
夜中に目が覚めてしまったのかも知れない。
――違うのか。
いくら考えてみても今が何時なのか判らない。
時計を見れば、窓の外から差す灯りの具合を見れば、すぐに判断できることである。
だがカツオにはそれが出来ない。することは叶わない。
そもそも――この部屋に窓や時計があっただろうか。
部屋を見回せばそれもわかる。
だが。
それは、出来ない。
5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:41:35.22 ID:+7p+g6sB0
「何をぼやぼやしておる。集中して話を聞きなさい!」
怒気を含んだ声に、カツオは驚いて顔を上げる。
顔を上げて、果たして先程の自分は本当に俯いていたのだろうかと疑念を抱く。
「大体お前には集中力が欠けておるからいかん。いいか――」
集中力が欠けて――。
聞き覚えのあるフレーズだった。
いつ聞いたのかは思い出せない。
否――飽きる程に聞いているのではなかったか。
飽きる程と云うからには、もう何度も聞いているはずである。
ならば――それは、いつだ。
昨日か、一昨日か、一月前か、一年前か。
――今日、だったのか。
絶えず聞き続けてきたのかもしれない。
絶えていないなら、その始まりはどこだったのだろうか。
7 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:42:35.14 ID:+7p+g6sB0
「カツオ!」
再度怒声がカツオの鼓膜を震わせた。
はい――とカツオは怯えた声を出す。
脚の痺れが、いつの間にかなくなっていた。
目の前には和装の男がいる。
老人――と呼ぶにはまだ若い。かといって子供ではない。少年、青年とされる人々より遥かに年を重ねてはいる。
しかし、初老や中年といった形容も眼前の男のイメージには相応しくないとカツオは思っている。何よりカツオは若き日の男の姿を知らない。
物心付いたときから変わらぬ容姿なのだ。
真っ直ぐに伸びた口髭。レンズの小さな丸縁眼鏡。その奥で見開かれている血走った目。顔の外に向かって垂れた両眉の間に深く刻まれた皺。
禿げ上がった頭頂部。その中心で、黒く太い頭髪が一本だけ捩れ聳えている。
カツオの父がそこにいた。
8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:43:29.81 ID:+7p+g6sB0
――御免なさい、父さん。
――僕、反省しています。
か細い声で、カツオは許しを請うように云う。
父は無言でその様子を見ている。
何を考えているのか少しも予想できない。
幾度も過ちを犯して醜態を晒し、その都度親に説教を喰らう息子。
瞋っているのか。
嗤っているのか。
哀れんでいるのか。
それとも――。
「――うむ。お前も十分反省しているようだし、今日はこれくらいにしておこう。行きなさい」
父はそう言い放って頬を緩ませた。
同時に背後の襖が開いて、姉が顔を覗かせた。
「父さん、カツオ、晩御飯が出来たわよ」
今は夜だったのか。
10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:44:28.57 ID:+7p+g6sB0
姉が開けた襖の隙間から風が吹き込み、父の手元にあった答案用紙を舞い上がらせた。
「零点――」
姉はカツオを見下ろし、奇妙に顔を歪ませた。
――ああ、お腹減ったなあ。
カツオはまるで意に介さない風を装い、早々に部屋から退散した。
風が――気になった。
先程の風は何処から吹いてきたのだろう。
食卓では鍋がぐつぐつと音を立てていた。
冬なのだろう。だとすればあの風は、冷たい冬の風だったか。
本当に冬だろうか。
先に食卓を囲んでいた妹や甥は長袖シャツに長ズボン、分厚い靴下といった冬の装いである。
だから、少なくともこの家の中は冬――家の裡のものは冬だと認識している。
家の外も、冬なのか。
13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:49:12.58 ID:+7p+g6sB0
季節などと云うものが本当に存在するのかどうか疑わしい。
暑さ寒さなど実際感じたことがあっただろうか。
誰かが夏だと決めたから暑がって、今は冬だと定められているから寒いと思い込んでいるだけではないか。
全て絵空事ではないのかと思う程に、カツオの世界は狭く、変化がない。
移り変わりは世の習い――であるらしい。
人は老いる。獣は衰え、草木は枯れ、物は壊れ――。
時は過ぎる。
そう。過ぎる筈だ。
14 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:53:13.57 ID:+7p+g6sB0
時が常に動き続けているならば、カツオには次々と過去が堆積していく筈だ。
カツオにとってそれは成長で、父にとっては老いなのかも知れない。兎に角そういった時間の流れ、事物の遷移が確実に存在している筈なのである。
そうでなければ世界が成り立つ訳がない。カツオ自身も誕生出来ないことになってしまう。
だから、時は流れている。変わっている。絶対に。
それなのに。
何一つ変わっていないようにしか思えない。
成長も老いも無い。生まれた瞬間から小学五年生で、同じ日々を何度も繰り返している。
そんな訳はないのだが、そんな気がする。
だからカツオは、今が一体いつなのか判らなくなる。
堂々巡りの疑念を抱いてしまうのだ。
15 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:55:29.53 ID:+7p+g6sB0
世界は何処まで存在しているのだろう、とも思う。
朝になれば学校へ行く。だから学校は、ある。
学校へ行けば同級生に会う。同級生達もまた、それぞれの家庭から登校してきたのだろう。
だが、その家庭は存在しているのだろうか。
カツオは知らない。
彼らの多くは家も親もいないのではないかと考えてしまう。壊れたり死んだりしたと云うのではない。最初から存在していないのだ。
――なんてね。
カツオは丸刈りにした頭を掻き毟った。これでは余りに荒唐無稽だ。
自分の知る世界が全てなのは、甥の様な幼子に限った話だ。
何時の間にか食事は終わり、カツオは居間で独り座っている。
16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/07(月) 23:57:47.78 ID:+7p+g6sB0
カツオはまた、全能の存在によって常に監視されているような錯覚を覚えることがある。
厳密に云えば、常に――ではない。
何も思わずに日常を送る時間の方が圧倒的に長い。
視られているような気がするのは、日に三十分程度である。
ほんの少しなのに、その時間が酷く長く感じられる。カツオにとってはそれが生の全てとさえ云える。
厭ではない。
だが愉快でもない。
何とも思っていないかと云えば――それもまた違う。
それは終わらないと見えて、終わっている。そして同時に始まっている。
メビウスの帯の上を歩き続けているような心持ちだ。
18 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:00:43.09 ID:ubq+mD2k0
同じ暦。同じ挨拶。同じ歩み。
同じ顔。同じ時間。同じ笑い。
同じ街。同じ言葉。同じ憤り。
同じ歌。同じ遊戯。同じ思い。
どこまでもだらだらと、いい加減に続く――。
坂ではない。終わりなき平坦な道だ。
始まりとは何処だろうか。始まりさえなかったのだろうか。
今は――いつなのか。
急激な不安に襲われて、磯野カツオは大きな溜息を吐いた。
19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:04:07.79 ID:ubq+mD2k0
2
滝に打たれてきたかのように汗塗れの男は、ホテルの前で長らく立ち竦んでいた。
出入り口の監視を任されていた若い警備員は、男を発見するなり不審者であると断定した。いきなり取り押さえる訳にもいかないので、警備員は至極形式的に何か御用ですかと明瞭且つ大音量の声で問うた。
すると男は飛び退いて身を縮め、何事かを呟いた。発音が不明瞭であったため警備員は彼に対して不審の念を強めた。
「逃げないで下さいよ。用があるんならご案内しますから」
「いや――私は――」
汗が噴出している。目が泳いでいる。警備員は益々警戒心を強めた。
「貴方、お名前は?」
「――い――ぐち――です」
蚊の鳴くような声は雑音に掻き消されて殆ど聞き取れなかった。
「井口?井口さんですね?」
警備員は今朝渡された名簿に目を遣る。其処に井口という苗字は記されていない。
今日このホテルで開かれるパーティーの参加者ではないようだ。
――当然か。
20 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:06:15.49 ID:ubq+mD2k0
「あのねぇ井口さん。今日はもうすぐこのホテルで大きなパーティーがあるんですよ。用事がないなら、あまり入口で突っ立ってて欲しくないんですがね」
明らかに不審人物である男は、警備員の言葉に反抗するかのように唸り声を出した。
「な、何だ」
「パ――パーティーに――用があるのです」
たどたどしい物言い。ひょっとして外国人なのか。或いは――狂人か。
男の顔面は蒼白になっていた。手は不気味に揺れている。
「あのねぇ。今日は有名な作家先生が沢山集まるパーティーですよ。参加者は正装で――」
そこまで云って、警備員は男に対する認識を少し改めた。
正装――である。怪しげな挙動の所為で、服装もまともではないと思い込んでいたのだ。
――参加者を装って忍び込む気だったか。
懐に刃物でも隠し持って、参加者を襲う算段だったのかも知れない。
男の顎から汗の雫が落ちた。
そのとき。
21 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:08:42.87 ID:ubq+mD2k0
「――関口先生?」
快活な声。
警備員と不審人物は同時に声の主を見た。
短髪の若い女が、首を傾げて立っていた。
「あ――敦っちゃん」
不審者は女の名を呼んだ。
女はつかつかと二人の間に進み出ると、警備員の顔を見て云った。
「稀譚社の中禅寺敦子と申します」
「ああ、そうなんですか」
パーティーの参加者だろう。
「――で?」
この利発そうな女性が、何故不審者との間に立っているのか警備員には理解できないでいた。
22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:11:29.60 ID:ubq+mD2k0
「こちらは、小説家の関口巽先生です。れっきとしたパーティーの参加者ですよ」
「え?」
警備員は慌てて名簿を見返す。
――せきぐち。
――あった。
男は不審者ではなかった。
「あ、いやいやいや、でもこいつ――こちらの方は、井口さんだと名乗られたので」
「そうなんですか?」
「いや――ちゃんと名乗ったつもりだったのだが、発音が悪いので聞き取れなかったのでしょう」
申し訳ない、と呟いて男は頭を下げた。汗の雫がまた落ちた。
「こ、こちらこそ飛んだ御無礼をッ!」
警備員は平身低頭して関口に非礼を詫びた。
「先生、早く行かないと。パーティー始まっちゃいます」
斯くして、関口巽は漸く会場入りを果たした。
24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:14:19.10 ID:ubq+mD2k0
中禅寺敦子に導かれ、関口はパーティー会場前の受付に至った。
受付嬢は二人に一礼すると帳面を差し出した。
著名な作家、大出版社の上層部、俳優、その他様々な文化人の名がずらりと並ぶ最後尾に、関口は己の名を書きつけた。
これから数時間、大勢の出席者と席を共にしなければならないことを思うと、関口の額からはまた汗が噴き出した。
「関口様、中禅寺様、本日はご出席ありがとうございます。ホールへお入りください」
扉を開けると、絢爛豪華な装飾に満ちた大広間が姿を見せた。
敦子は関口を置いてひとり広間の奥へと進んで行った。
広間のステージ上に掲げられた幕には「伊佐坂難物 海鮮文学賞受賞記念パーティー」の文字が躍っていた。
伊佐坂難物――戦後の本邦恋愛小説界の大御所である。近世から現代にかけての日常を舞台とし、庶民の男女の恋愛感情を繊細に、
そして時に大胆に描写する作風は老若男女から支持されている。受賞暦も豊富で、新人の頃から権威ある文学賞を多数受賞してきた。
25 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:16:30.47 ID:ubq+mD2k0
そして先月、伊佐坂の最新作であり、発売直後から「哀切且つ峻烈な愛の物語」として話題沸騰し、驚異的な売り上げを記録した『MAGROu』が海鮮文学賞を受賞した。
海鮮文学賞は日本文藝の更なる興隆のため創設された賞で、大海の如く広く深い物語世界を有し、読者に鮮魚の如く新しい驚きを以って迎えられた小説が年に一作選ばれる。
普段は恋愛小説など読まない関口も『MAGROu』だけは読んでいた。
平易な文章とスリルに満ちた展開、程よいユーモアを含んだこの小説は正に歴史に残る傑作と云うべきで、関口は自分のような三文文士の駄作と比べるのも烏滸がましいと思っていた。当然、作者たる伊佐坂との面識もない。
それなのに関口は、何故か今回のパーティーに招待されてしまったのである。
関口ははじめ自宅に届いた招待状を、何かの手違いで送られてきたものだと考えた。しかし電話で問い合わせてみた所、関口先生を招くことは伊佐坂難物たっての希望だという答えが返ってきた。
26 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:19:28.17 ID:ubq+mD2k0
「やあ、貴方が関口巽先生ですか!」
艶のある声が関口を呼んだ。顔を上げると、敦子を伴って歩いてくる初老の男が見えた。
「あ――ええ――」
「これはこれは。お初にお目にかかります。本日は急なお誘いにも関わらず
ご参加頂き、真に有り難いです」
男は関口の前に立って深々と頭を下げた。
「――その、私は忙しくないものですから」
男は顔を上げ、笑顔で再び有り難うございますと云った。
「伊佐坂難物です」
長身の老作家は顔まで常人よりも長かった。大きな鼻の上に小さな眼鏡が載っている。
眉は垂れ下がり、側頭部の髪を伸ばして、禿げ上がった頭頂を覆い隠している。
難物という筆名からは想像も出来ない温厚そうな風貌である。
関口はまだ自分から名乗っていないことを思い出し、慌てて頭を下げた。
「こ、こちらこそお招き有り難うございます。関口巽です」
顔を上げて暫し硬直する。伊佐坂は関口を見つめ、穏やかな表情のまま沈黙している。
28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:21:40.04 ID:ubq+mD2k0
「失礼。私は作家相手には自分から握手を求めないことにしとるのですよ。手指を動かす商売なので、万が一のことがあってはいけませんから」
関口が辟易していることを感じ取り、伊佐坂が申し訳なさそうに云った。
「――いえ。僕も、に、似たようなものです」
気が合いますなと云って伊佐坂は笑った。
「おっと。もう時間だ。私は挨拶がありますので失礼させていただきます。では後ほど」
後ほど――何を話すというのか。関口の周囲では著名人の群れが歓談している。伊佐坂が話すべき人物など、会場には掃いて捨てるほどいるのに、
どうして自分と話したがるのか。
関口が蒼くなっているのに気づいた敦子が、心配そうに覗き込む。
「先生、大丈夫ですか?体調が優れないならご無理はなさらない方が」
「大丈夫だよ。もう――来てしまったからね」
29 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:23:47.41 ID:ubq+mD2k0
伊佐坂が再び関口の許へやって来たのは、受賞記念パーティーが始まって一時間半程が経過した頃だった。
「やあ関口先生。お待たせしました」
関口は著名人が闊歩する大広間中央を避けて、人の少ない隅のテーブル近くに立っていた。
「どうですか料理は。お気に召しませんかな」
関口は会場の料理に殆ど手を付けていなかった。
「いえ、そんな」
背を曲げて口籠る関口を見下ろして伊佐坂は微笑んだ。
「――あ、改めまして、この度は海鮮文学賞受賞、おめでとうございます」
関口が絞り出すように祝辞を述べると、伊佐坂は嬉しげに幾度も頷いた。
幾らか酒を飲んだのだろう、頬が紅潮している。
「私はね、是非関口先生にお会いしたかったのですよ」
「ど、どうして」
31 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:26:08.95 ID:ubq+mD2k0
どうして大作家が自分などに会いたがるのか。
嘗て巻き込まれた忌まわしい事件を思い出し、額に汗が滲む。
「私は、貴方の作品の――所謂、ファンと云うやつなのですよ」
「ああ――は?」
予想だにしない答えが返ってきた。
「関口先生の作品は短編ながらどれも深遠な闇を湛えている。決して底の知れない、作中人物を理解した途端に突き放されるようなあの感覚を
得られる小説は稀有なものです」
「そのように褒められるものでは」
実際には褒めているのか、関口にはよく判らなかった。
「謙遜は止して下さい。『嗤フ教師』の頃から独特の雰囲気があると思っていたが『目眩』に至って――」
その後も伊佐坂は関口の小説を挙げ、内容と作風について詳細な評価を行った。本当に熱心な読者のようである。
「――ただ、あまり広く受け入れられるタイプではないかも知れない。否、誤解はしないで頂きたい。
私のように一旦惹き付けられた読者は、もうその世界からは逃れられませんからね」
32 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:28:31.10 ID:ubq+mD2k0
暫く二人で話していると、伊佐坂によく似た男が近付いてきた。
同じように口髭を生やして眼鏡をかけてはいるが、男の顔は丸く、毛髪の殆どない頭頂を隠そうとはしていない。
伊佐坂は男を自分の隣に引き出し、関口に紹介した。
「こちらは私が日頃よくお世話になっている、隣人の磯野波平さんです」
「どうも、磯野です」
磯野波平は腰を折り、関口に禿頭を見せつけた。
よくみると頭の中心に黒々とした毛が一本だけ残っている。
磯野の隣には坊主頭の少年が立っていた。
「これは儂の長男でカツオと云います」
「磯野カツオです。宜しく」
少年――磯野カツオは媚びを含んだ笑顔で関口に会釈した。
33 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:31:16.49 ID:ubq+mD2k0
「関口先生も小説家なんですか?」
「まあ、そうだよ」
若干の躊躇いを感じつつも関口は答えた。
「僕、小説家の先生って憧れます。自分の思ったことを自由に言葉に出来るから」
「僕は――僕なんかにはまだ自由にはいかないよ。伊佐坂先生ならそうだろうけどね」
「やだなあ謙遜しちゃって!」
こら、と波平の小さな怒声が広間隅に響く。
「一丁前の口を利きおって。向こうでサザエ達と食事をしていなさい」
関口が腹足綱古腹足目サザエ科の巻貝をペットの如く可愛がる珍妙な家族を幻視する間に、
カツオ少年は広間中央へと駆けていった。
「磯野さんはよく叱りつけますがね、カツオ君はあれでなかなか利発な少年ですよ」
伊佐坂が上機嫌で云った。
「いやいや、まだまだ未熟な子供、教えて聞かせねばならんことで一杯ですよ」
波平が渋い顔で返す。
こうなっては関口が入り込む余地などもうない。
35 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:33:24.45 ID:ubq+mD2k0
「そう云えばノリスケの姿が見えんな」
波平が眉間に皺を寄せて云う。
「波野君は厨房の様子を見に行くと云っていましたよ。あれは私の演説の後だったかな」
「それにしたって一時間以上も――あの男のことだ、きっと昼寝でもしておるんでしょう」
伊佐坂は関口の顔を見た。
「――波野ノリスケ君と云うのはね、私の担当編集者で、この波平さんの甥にあたるんだよ」
「そ、そうですか」
会話に入れないでいる関口に向けて、伊佐坂は丁寧にも解説を入れた。
「不出来な甥っ子で恥ずかしい限りです」
波平はそう云って、本当に恥ずかしそうに目を瞑った。
36 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:35:12.65 ID:ubq+mD2k0
そのとき、会場の雑音に紛れて、大変だあ――という裏返った声が聞こえてきた。
伊佐坂と波平、関口は揃って声のした方を向いた。
声を発したらしい眼鏡の青年は、こけつ転びつステージに上がろうとしている。
「甚六――?」
伊佐坂が呟く。
ステージに上がった青年は、放置してあったマイクを乱暴に取り上げてスイッチを入れた。
「み――皆さん、大変ですッ!」
青年は周章狼狽している。
その尋常でない様子に、参加者達の間にも動揺が拡散していった。
青年は乱れた呼吸を落ち着けようと深呼吸をし、再びマイクに声をぶつけた。
「ホテルの裏で――人が、人が殺されていました!」
37 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:37:18.89 ID:ubq+mD2k0
「甚六!」
伊佐坂が一歩前に出た。
波平が関口に耳打ちする。
「あれは先生の息子の甚六君です」
そう聞いて、改めて壇上の青年を見れば、確かに面立ちが初老の作家と似通っている。
「悪巫山戯けが過ぎるぞ、甚六」
伊佐坂の眉が吊り上がる。
「ステージから降りなさい!」
伊佐坂の落ち着いた、しかし厳しい声を浴びて、甚六は反抗するような目をした。
「僕は巫山戯てなんかいない。殺されていたのはノリスケさん――父の担当編集です!」
場内の誰もが絶句した。
39 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:40:32.27 ID:ubq+mD2k0
3
東京都神田神保町に建つ堅牢なビルヂングの三階。
薔薇十字探偵社の事務所で、益田龍一は暇を持て余していた。
浮気調査も動物捜しもない。
現在、薔薇十字探偵社に寄せられている依頼は一つもなかった。
世界唯一にして無二の探偵・榎木津礼二郎も、何処へ出かけたものか朝から不在である。
「和寅さん、紅茶」
益田は窓の外にちらつく雪を見ながら云った。
「全く君は、何杯目だ。腹を毀すんじゃあないか――」
そう云って榎木津の秘書兼給仕の安和寅吉が、紅茶を載せた盆を手にして出てきた。
40 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:42:44.58 ID:ubq+mD2k0
「-――まだ六杯目です。それに茶飲み以外することがないですよ。野原さんとこの依頼は昨日片付けちゃったし」
「浮気調査でしたかね」
和寅は益田の向かいに座り、己の分の紅茶を啜った。
「旦那の浮気調査と、ペットのシロちゃんを捜せと。子守まで任されそうになったのは流石に断りましたが」
「で――どうだったんだい?」
「野次馬だなあ。浮気はシロ。犬のシロは――縁の下に隠れてただけでしたよ」
益田も紅茶を一口呑んだ。茶菓子でもあれば――と思う。
「案外早く片付いたんだね。それなら子守も引き受けりゃよかったんだ」
「勘弁して下さいよ。優雅に紅茶を飲む暇もなくなるじゃないですか――」
益田がそう云ったとき、出入り口から冷たい風が吹き込んできた。
41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:44:56.04 ID:ubq+mD2k0
「あの――」
学生服を着た少女が、扉の前に立っていた。
「――貴方が、探偵さんですか?」
少女は円く大きな目で和寅を見た。
「違いますよ。この人は和寅君というお茶汲みの人です。和寅君お茶」
和寅は益田の指示に渋々従い、盆を持って奥へと下がった。
「どうぞ、お嬢さん」
「貴方が探偵さん――なんですか?」
少女は怖ず怖ずと益田に歩み寄る。
「僕は残念ながら探偵――の助手で、益田龍一といいます」
益田が自己紹介すると、少女はぺこりと頭を下げた。
「依頼があって来ました。――平沢憂と申します」
43 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:47:17.97 ID:ubq+mD2k0
「平沢――ういさん、ね。兎に角座って下さい。寒かったでしょ、もう直ぐ紅茶が来ますから」
和寅君早くし賜えと偉そうに云ってから、益田は憂に向き合った。
「それで、依頼とは」
「はい――」
「犬ですか、猫ですか?」
「――はい?」
「え――失礼。てっきり迷子の動物捜しかと。そういう依頼も多いもんですから」
「――違います。私の依頼は」
憂は目を伏せた。膝に置いた学生鞄を掴む手に力が入っている。
酷く思いつめた様子だった。
44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:49:34.04 ID:ubq+mD2k0
「云い辛いことなんでしょうや。益田君はデリカシーがないなあ」
新しい紅茶を盆に載せて和寅が帰ってきた。
「和寅さんだって野次馬じゃないですか。あ、紅茶どうぞ平沢さん」
憂は二人にそれぞれ頭を下げ、有り難うございますと云った。
「云い難いのなら、独り言でも呟いてる気になって下さい。独りのティータイムとでも――」
「ティータイム――」
紅茶の水面に映る顔を見ながら、憂は益田の言葉を反復した。
そして顔を上げ、今度は益田の顔を見た。
益田は暫し憂の顔に見蕩れた。汚れのない美少女である。
「――お話しさせて頂きます」
憂は鞄から一枚の写真を出した。
45 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:51:13.74 ID:ubq+mD2k0
益田と和寅は机に置かれた写真を覗き込んだ。
写真には少女が写っていた。
「これは――平沢さん、君じゃないの?」
「私のお姉ちゃ――姉です。一つ違いで、名前は唯です」
よく似てますなあと和寅が感嘆の声を上げた。益田ももう一度写真に目を遣る。
憂と写真の少女――唯は、一卵性双生児のように瓜二つだった。
多分、憂が髪を下ろしたなら益田には姉妹の見分けが付かなくなるだろう。
「一歳違いということは、ええと――」
「私は高校二年生、姉は三年生です」
「そうですか、依頼は――このお姉さんに関することですか?」
憂は悲しそうな目をして頷いた。
47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:53:12.31 ID:ubq+mD2k0
「私も姉も、桜ヶ丘高校に通っています」
「女学校じゃないですかい」
和寅が口を挟んだ。
「はい。姉は怠けがちでおっちょこちょいで――でもいつでも明るくて、好きなことには本当に一生懸命で、一緒に居ると幸せになれて――」
憂は唇を噛み締めた。
「平沢さん――」
目が潤んでいる。
「――でも、そんなお姉ちゃんが、先月からおかしくなったんです」
「おかしくなった?」
「はい。ある日の夜、泣きながら家に帰ってきて――それからは外出したがらないし、勿論学校にも行かなくなりました」
「その日の夜に何かあった――ということですか?」
「そうだと思います。でもそのことを訊くといつも泣き出すんです」
48 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:55:09.69 ID:ubq+mD2k0
憂は沈痛な面持ちで語り続けた。
「病気か何かかと思って、一度お医者さんに往診に来て頂いたこともありました。でもお医者さんが家に上がるなり、
お姉ちゃんは錯乱しました。叫び声を挙げて、部屋にある物を投げつけて――結局原因は分からず終いです。
大好きだったご飯も殆ど食べなくなりました」
遂に涙が溢れ出し、憂の頬を伝って鞄の上に落ちた。
「和寅君ハンカチーフ」
益田が云うと、和寅は慌てて奥へ引っ込み、やがてハンカチを持って戻ってきた。
「どうぞ。涙を拭いて下さい。ええと、平沢さん――その、
異変があった日のことを知ってるお友達とかはいないんですか?」
「――はい。姉には同じ部活動の親しい友達が――私の友人でもあるんですけれど――
四人の友達がいます」
「その子達は何と?」
益田の問いに、憂は首を横に振った。
「他の四人もその日からお姉ちゃんと同じです。学校に来なくなって、家に引き籠もって――」
49 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:56:50.74 ID:ubq+mD2k0
「――平沢さん、それじゃあ探偵への依頼とは」
「はい」
憂は写真に目を落とした。
「一ヶ月前、姉達の身に何が起きたのかを調べて頂きたいんです」
益田が返事をしようとした瞬間、大きな音がして冷たい風が吹き込んできた。
「わははははは!帰ったぞッ下僕達!」
沈んだ空気にそぐわない高笑い。
探偵――榎木津礼二郎が帰ってきた。
「ん――桜だ。それにギターとアイスじゃないか!それからこれは何処かで――
食卓の沢庵だな!大きなゴキブリがいるから掃除しなさい」
振り返った憂の頭上を視て、探偵は訳の分からないことを口走った。
51 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 00:59:27.93 ID:ubq+mD2k0
4
警視庁捜査一課の刑事・青木文蔵は困惑していた。
変死体発見の通報を受け現場に着いてみれば、其処には数多くの著名人に紛れて中禅寺敦子と関口巽の姿があった。
ホテルの大広間では伊佐坂難物の海鮮文学賞受賞記念パーティーが開かれていたのだという。
敦子が雑誌記者として出席するのは理解できるが、よもや関口まで来ているとは思わなかった。
今回のパーティーには幾人もの小説家が出席している。関口だって曲がりなりにも小説家なのだから、この場にいても
不自然ではないと考えることも出来る。
が――関口は明らかに浮いていた。他の出席者とは、小説家としての格が違っている。
これは客観的事実であり馬鹿にしているわけではないのだと、青木は眼前で挙動不審の度合いを増す格下作家を見て思った。
52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:01:26.41 ID:ubq+mD2k0
被害者は波野ノリスケ。
出版社勤務の二十五歳で、パーティーの主催者伊佐坂難物の担当編集者だった。
また、パーティーに出席していた磯野家とも血縁関係にあったという。
ノリスケはホテルの厨房裏手、ゴミ捨て場で発見された。第一発見者は伊佐坂の息子と若い調理師だった。
発見時には既に死亡して冷たくなっていたという。
ノリスケの死体は全裸で、厨房から出されたゴミに埋もれていた。
贅肉の付いた裸体は汚れ、生前着ていた衣服はズタズタに裂かれてゴミと共に放置されていた。
頸には麻縄が幾重にも巻きつけられており、死因は頸部圧迫による窒息死かと思われたが、頭部や臀部、胴にも複数の打撲痕が発見された
死体は目と口をこれ以上ない程に大きく開いていた。驚愕、あるいは恐怖の表情だろうか。
そして肛門には――特大の擂粉木が深々と挿入されていた。
54 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:03:40.68 ID:ubq+mD2k0
猟奇的な死体を前にして、青木は手で鼻と口を覆った。
酸鼻極める死に様もさることながら、その場に漂う腐った烏賊のような異臭に吐き気を催したのである。
廃棄物の生臭さと死臭が交じり合っている。陽の当たらないホテル裏の湿気がそれを極限まで増幅させていた。
青木は近くにいた鑑識を呼び止め、問い掛けた。
「――死因は?」
「頸を縄で絞められたことによる窒息と思われます――が、その他の可能性も十分に考えられます」
「解剖の結果を待てと云うことですね」
「そうするまで断定は難しいと思われます」
「では、あの――棒は」
「擂粉木――ですな。厨房で使われる物のようです」
「何故あんなことを?」
「犯人の意図は解りません。が、余りに太いため肛門が裂けていました」
56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:05:35.56 ID:ubq+mD2k0
警察到着以前に死体を見ていたらしい伊佐坂は大いに取り乱していた。
「ま、まさか波野君が殺されたなんて!」
落ち着きなく歩き回りながら伊佐坂は云った。
「死に顔は常態に輪をかけて間抜けだし――こんな最期があるだろうか」
伊佐坂は青木に縋るように云った。
「どうすればいいのです!彼には妻も子もいたというのに」
「待って下さい。その二人はこちらにいるんですか?」
「いや――折悪く夫婦喧嘩中だそうで、奥さんは子を連れて実家へ帰っているそうです」
「そうですか――」
伊佐坂の聴取は別の刑事に任せ、青木は関口の所へ行った。
57 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:07:06.66 ID:ubq+mD2k0
「関口さん――」
「大丈夫だよ」
関口は思ったほど憔悴していなかった。
「関口さんは死体を見たんですね」
「見たよ」
そう云って関口は俯いた。それでも矢張り、少し鬱いでいるようだ。
「甚六さんが駆け込んできて、マイクで会場中に死体発見を告げたんだ」
甚六は今この場にはいない。彼は調理師と共に犯人ではないかと疑われているのだった。
「僕は丁度伊佐坂先生といたから――まあ巻き込まれて、一緒に死体を確認に行くことになってしまった」
「では伊佐坂さんと二人で?」
「僕と伊佐坂先生と、敦子君と、あとは磯野さん――四人で行ったんだが、暫くすると磯野さんのご家族がついてきたよ」
58 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:09:14.38 ID:ubq+mD2k0
「磯野――伊佐坂家の隣人一家ですね。つまり、我々が来る前に死体を直接見たのは」
「第一発見者の二人と、僕達三人、磯野家の七人――十二人だね」
十二人――家族総出で見に来たなら、幼い子供もいたことだろう。
「わかりました。磯野家の人達の所へ行ってきます」
「僕は」
「もう少しここにいて貰うことになります。またお話を窺うかも知れません」
青木は広間の一角を占拠している磯野家の面々の所へ行った。
「失礼します――」
青木が声をかけると、七人は一斉に振り返った。
禿頭の男。老いた女。
若い男。若い女。
少年。少女。
――幼児。
異様な光景だった。
頭髪や体型、衣服は当然、皆違う。しかし目鼻が判で捺したように同じだった。
否――同じであるように見えた。
59 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:11:20.46 ID:ubq+mD2k0
「磯野さんですね。少しお伺いしたいことが」
はい、と返事をして禿頭の男が進み出た。
「貴方が磯野波平さんですね?」
「そうです。甚六君の報告があって、直後に二人の先生と一緒に建物の裏へ行きました」
「成る程。最初に三人で見に行った訳ですね」
「すぐに僕達もお義父さんと合流しました――」
若い男が波平の隣に出てきた。痩せて神経質そうな顔付きに、
波平と同じような眼鏡をかけている。
「フグ田マスオです。サザエの夫で――磯野家で暮らしています」
マスオは申し訳なさそうに云って、青木に妻を紹介した。
60 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:13:32.14 ID:ubq+mD2k0
白いブラウスの上に黒いベスト、スカートも黒い。結い上げて左右と上方に張り出すようにした
髪型は、吉原の遊女を彷彿とさせた。
フグ田サザエは毅然とした女性だった。
「万一別人かも知れないと考えて、僕が確認に行こうと提案したんです」
マスオが云った
「違います」
サザエはマスオの言葉をすぐさま否定し、彼を押し退けて青木の前に立った。
「私が野次馬根性を出して見に行こうとしたんです。マスオさん達はそれを止めようとしている内、
ずるずるついて来てしまっただけです」
波平が顔を顰め、何事かを呟いた。
青木は後ろの四人に視線を投じた。
「貴方がたも、遺体をあの場所で目撃した。間違いありませんか?」
老女は俯いたまま、はい――と答えた。寠れている。
62 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:15:38.93 ID:ubq+mD2k0
「すみませんが、ご家族のお名前と年齢、職業を教えて頂けますか」
青木は波平に訊いた。
「はい。まず儂が磯野波平、齢は五十四です。それからこれが家内のフネ。
二つ年下で、主婦をしております」
青木は後ろで俯いているフネに目を遣った。実年齢よりずっと老けて見える。
次いで波平は隣にいる若い夫婦を示して云った。
「此方はフグ田マスオ君」
義父に紹介され、マスオは青木に頭を下げた。
「フグ田マスオ、三十二歳になります。海山商事勤務のサラリーマンです」
「それから――」
「フグ田サザエです」
波平が紹介するより早く、サザエは自ら名乗った。
陽性の大声は酷く場違いだった。
「二十七歳。主婦です。フグ田マスオの妻で、磯野波平の長女です」
63 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:18:06.95 ID:ubq+mD2k0
続いて後列の坊主頭の少年が声を発した。
「僕は磯野カツオです。かもめ第三小学校五年生の十一歳で、姉がこのサザエです」
陽気な声である。姉と同じく、まるで動揺していない様子だった。
カツオは隣に座っている少女と青木とを交互に見て、眉尻を下げた。
「――妹のワカメです。同じ小学校の三年生です」
ワカメは泣き腫らし、目が真赤に充血していた。
「最後の一人は――」
波平が、ワカメの椅子の後ろにいた幼児を抱きかかえた。
「この子はフグ田タラヲ。サザエとマスオ君の子です」
祖父に抱き上げられて尚、タラヲは幼い叔母を見つめていた。
「年齢は?」
「三歳になります」
波平が答えると、タラヲは首を捻って青木に目を向けた。
「タラちゃんです。よろしくです」
幼く高い声。
タラヲの瞳からは――感情が一切窺えなかった。
65 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:20:43.01 ID:ubq+mD2k0
5
どうすればいいのかなと云って、フグ田マスオはドアを閉めた。
今まで通りで問題ないよと答えて、穴子はブラインドで窓を覆った。
海山商事社屋四階に設置された第二資料室。
何年も前の社の記録や、滅多に用いられない書類が壊れた備品と共に詰め込まれたこの部屋に用がある者は、殆ど居ない。
穴子が無言でドアノブを指差すと、マスオはすまないと云って鍵を掛けた。
薄暗い資料室に、埃と黴、汗の臭いが充満した。
マスオにとって、それは決して不快なものではなかった。
66 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:22:15.56 ID:ubq+mD2k0
「どうすればいいのだろうね」
もう一度マスオは云って、書類の積み重なる小机に腰掛けた。
「だから、今まで通りにしていればいいんだよ」
謡うような野太い声。
穴子は指のささくれを剥いて何処かへ放った。
「――云ってみれば本能だよフグ田くゥん。否定出来たものじゃない」
「でも僕は、その所為で」
「皆まで云っちゃいけないよ」
穴子は異様なまでに分厚い唇で、マスオの口を塞いだ。
69 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:24:19.57 ID:ubq+mD2k0
舌が触れ合い、唾液の絡む音が室内に響く。
慌ててマスオは穴子を押し返す。
「待ってくれ。今は――そういう気分じゃないんだ」
「これが本能だろう、フグ田君」
穴子の、顔に比して小さな目がマスオを射る。
「君だっていつもこうするじゃないか」
「すまない。本当に、悪かったよ――」
謝らないでくれよと穴子は云う。
「今日は君の悩みを聞くために此処へ来たんだから」
マスオは下を向いた。休日前に穴子と逢ったときよりも痩せていた。
窓からの光がマスオの顔に陰影を作り出す。
70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:26:04.68 ID:ubq+mD2k0
「顔色が悪いな。また薬漬けの日々に戻るんじゃないか」
「いや――それは、厭だね。今でも少しは服用しているのだけれど」
マスオはポケットから小さな錠剤の壜を出して見せた。
「だったら気に病んじゃ駄目だ」
「――そうかな」
「そうさ」
マスオは頭を抱えた。
「五日過ぎて尚、君は何の嫌疑もかけられていないじゃないか」
「いずれ真実は明らかになる。長くは隠し続けられないよ」
71 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:28:16.92 ID:ubq+mD2k0
マスオはそのまま抱えた頭を掻き毟る。
「僕は――妄想に取り憑かれそうだよ。いつ秘密が露見するのかと思うと、夜も眠れない」
逃げ出したいよとマスオは云った。
穴子は溜息を吐く。
「君が殺したんじゃない」
「僕が殺したようなものだ」
「だからそれが違うと云うんだよフグ田君」
「どうして――」
「不幸な事故だろう。それに――」
72 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:30:21.35 ID:ubq+mD2k0
穴子は傾いた書棚に手を突いて云った。
「波野君が死んだ後、死体を弄繰り回している奴がいるんだろう」
マスオが顔を上げる。
「そう――だよ」
「君が云う通りなら、波野君が死んで、君は取り乱して一度は逃げ出した」
「ああ――それで僕は、冷静になってからとんでもないことをしたと思って、
その場へ引き返したんだ」
「しかし戻ったときにはもう――」
マスオは頷いた。
「死体は消えていた」
その後に甚六がホテルの裏で、頸に縄を巻かれ尻を陵辱された骸を発見した。
「矢ッ張り伊佐坂氏の息子が犯人じゃないかな」
穴子は優しい声で云った。
「彼は屍姦趣味者の上、極度の加虐趣味者だったとすれば説明がつく」
74 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:32:04.92 ID:ubq+mD2k0
「そんな都合のいい話が」
「ない――とは云い切れないだろう」
マスオはまたも俯く。
「駄目だよ」
「悲観的になるなよ。死体は君の手を離れて損壊されたんだ。
いくらでも言い訳が立つ」
穴子はブラインドを上げ、窓に手を掛けた。
外から白い光が差し込み、マスオは目を細めて穴子の背を見る。
「どうも今日の話に、この部屋の空気は相応しくないね」
換気しようと云って、穴子は窓を勢いよく開けた。
同時に――。
窓の前を、人の形をした真黒なものが落下していった。
「何だ今のは!」
マスオが立ち上がる。
窓を全開にし、二人は階下を覗き込む。
地上に落ちた黒い物体を通行人が取り囲んでいる。幾つもの絶叫が聞こえてくる。
それは――黒焦げになった死体だった。
75 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:37:00.42 ID:ubq+mD2k0
6
「こいつァ怪しい顔をしてるな!」
「間違いなく殺人鬼よ!」
「そ、そうなのかな――」
頭上で勝手な会話が繰り広げられている。
益田は何故か、二人の小学生と一人の親爺に取り押さえられていた。
「警察呼びましたからね!今に逮捕されちゃうんだから」
小太りの女子小学生が犯罪者を断罪する口調で云った。
「ぼ――僕ァ犯罪者じゃなくてですね、探偵事務所の者で」
「見苦しい言い訳はよせやィ」
親爺――恐らくは女児の父親が益田の腕を捩る。
77 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:39:03.16 ID:ubq+mD2k0
間もなくして、路上で騒ぐ四人の所へ二人の警官がやって来た。
「通報ご苦労様であります!」
交番勤務と思しき制服警官が叫ぶ。
「貴様が連続殺人犯かッ御用!」
意気揚々と手錠を振り回す警官を、ついてきた刑事が制止する。
「待って下さい――君は、益田君じゃないか!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前にコケシ――のような顔の青年がいた。
「あ――青木さァん」
益田は妙な体制のまま泣き声を出した。
78 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:41:26.94 ID:ubq+mD2k0
益田と警官二人は、先程の親爺が経営する不動産屋へと場所を映した。
「ああ、すぐ火を入れます。先程はどうも失礼しましてお詫びの言葉もありません」
潔白が証明されてからの親爺は謝り通しである。
女児はやっぱり不服そうに頬を膨らませている。
「花子、この方達にお茶をお入れして!」
「はァい」
――否。
あれは元から膨らんでいるのか。
「それで、君は何を調べに此処まで」
「とある少女達の、異変の理由を探れと頼まれまして」
79 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:43:27.12 ID:ubq+mD2k0
益田は先日の依頼内容を、固有名詞を伏せて青木に話した。
依頼を受けた益田は、憂から一枚の写真を預かっていた。
写真には5人の少女が笑顔で写っている。揃いも揃って美少女である。
依頼人の姉――平沢唯を中心に、カチューシャで髪を上げて額を見せた少女、
日本人形のような黒々とした髪の少女が並ぶ。
右端にはもう一人、小柄な黒髪の少女がいる。姉妹のようだが、憂によれば単なる後輩だそうだ。
左端の少女は明るい灰黄色の髪に陶磁器のような白い肌、目の上には特徴的な太い眉があった。
憂に写真を渡されたとき、和寅がこの少女を指して声を上げた。
――このお方は琴吹家の!
聞けば、この少女の名は琴吹紬――榎木津の父・榎木津幹麿元子爵とも親交深い、
大企業を経営する琴吹家の令嬢なのだという。
81 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:45:33.50 ID:ubq+mD2k0
益田は三つの可能性を思い描いていた。
一つは彼女達が犯罪の被害者となり、心に傷を負った可能性。
もう一つは、何らかの犯罪に巻き込まれて犯人から脅されている可能性。
そして――彼女達自身が犯罪に手を染めた可能性。
もし三つ目が真実なら、学校と企業の信用を暴落させかねない醜聞となるだろう。
五人の誰かに会って話を聞くことが出来たならすぐにわかるのだが、接触することは憂から固く止められていた。
彼女らを傷付けることなく真実を探って欲しいのだと云う。
仕方なく益田は周辺住民に聞き込みを行うことにした。
「それで、何か分かったんですか」
「――少しはね」
83 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:47:28.41 ID:ubq+mD2k0
「聞き込みの結果、五人のうち二人は、不登校になってからも多少外出している様子でした。
だから的をその二人に絞って、外出するのを待ち伏せして――」
出て来たのかと青木が問う。
「ええ。最初はただ一人の下級生、部活の後輩さんの所を張っていました。
彼女は早朝にこっそり家を出て、隣町に行きました」
「隣町?」
「隣町の――産婦人科へ」
「ああ――」
青木の表情が暗くなる。
「――強姦ですか」
益田は小さく頷いた。
「その時点ではね、まだ部員全員で売春してたとか、そういう線も捨て切れないと思ってましたよ。
まあ流石に病院内までは入れませんでしたから、何の診察を受けたかまでは分からないですけど」
84 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:49:30.57 ID:ubq+mD2k0
病院から出て来た少女は幾らか安堵した表情になっていた。
「僕は彼女の尾行は中断して、もう一人――今度は部長さんの家の近くへ行って、外出しないか見ていました」
張り込みから一時間ほどがたった頃、部長は家を出て駅に向かった。
「駅?――それで、何処へ」
「何処へも行きませんでした。ただ路線図を眺めて帰っちゃいました。――ポケットに刃物を忍ばせてね」
「刃物?」
青木が眉を顰めた。
「だからね、僕は――彼女が誰かを殺そうと思ったんじゃないかと推理した訳ですよ。
でも矢ッ張り決心がつかなくて引き返した、と」
「それじゃあ、益田君はどうしてこの町へ来たんですか?」
「部長の女の子が路線図で何度も確認していたのが、此処の最寄り駅でした。憎い相手はだから、
この辺りに住んでいたりするんじゃないかと思ったんですけどね」
僕が不審者扱いですよと云って、益田は虚しく笑った。
85 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:51:33.43 ID:ubq+mD2k0
不動産屋の娘が漸く茶を持って出てきた。
「どうぞ!」
テーブルの上に乱暴に茶を置き、女児は部屋の端のソファに座った。
「さて。僕は大体お教えしましたよ。其方も何やってるのか話して下さいよ――と国家権力相手に云うのは気が引けますね」
話しますよと青木は云った。
「最初に云った通り殺人です。関係者の中には関口さんも居ました」
「不運な人だなぁ。またですか」
「最初は作家のパーティーで絞殺体が見つかったんです」
「作家?誰です」
「伊佐坂難物ですよ」
「わあ――大先生じゃないすか」
「殺されていたのは伊佐坂の担当編集者でした」
86 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:53:15.18 ID:ubq+mD2k0
青木は事件の詳細を語った。
波野ノリスケが死亡したのは、大学浪人伊佐坂甚六と若い調理師に発見される二時間以内と推定された。
第一発見者である二人は真っ先に犯行を疑われたが、聞き込みによって不在証明があることが明らかになった。
甚六と調理師は中学時代の同級生で、今回パーティー会場で偶然の再会を果たしたという。二人がパーティー
開始前の数十分間、厨房の出入り口周辺で雑談している姿は、何人ものホテル従業員に目撃されていた。
パーティーが始まった後、甚六は持ち歩いていた勉強用ノートを置き忘れたことに気づき、厨房に居た調理師を呼び寄せた。
二人が話していた場所にノートはなく、ゴミと一緒に廃棄されてしまったのではないかと疑った調理師と甚六は、
会場を途中で抜けてホテル裏へ出た。
そうして――波野のリスケの変死体を発見してしまったのだという。
「――それで、その浪人生のノートは?」
「隣人一家のフグ田サザエさんが先に拾っていたようです」
87 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:55:15.07 ID:ubq+mD2k0
犯人が特定できないまま五日が過ぎた。
そして今度は、死体の目撃者であり、波野ノリスケの親類であるフグ田サザエの夫・マスオが
勤務する海山商事で死体が発見された。
「また変死体ですか?」
益田が訊いた。
「変死体でした」
死体は真黒に焼け焦げていた。死後時間が経過したものと見られ、指と性器は何故か切断されていた。
顔面は潰され、毛髪も焼き尽くされていた。
「それが――落ちて来た」
「落ちて来た?何処から?」
「四階の資料室に居た穴子という社員が、上から落ちる所を目撃しています。
その社屋は四階より上にあるのは屋上階だけでしたから――」
「誰かがその黒焦げ死体を運んで、屋上から落っことしたってことですか」
89 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 01:57:37.18 ID:ubq+mD2k0
益田が続けて問う。
「身許は判明してるんですか」
「まだ――です。同一犯かどうかも判らない。ただ、最初に殺された波野ノリスケに就いて、興味深い事実が出てきました」
「何です?」
青木は聞き耳を立てている二人の子供を気にしながら云った。
「波野氏は其処にいる男の子――磯野カツオ君の親戚でもあるんですが」
「お構いなく。何を云われても気にしませんから」
カツオが陽気な声で云った。
青木はどう答えてよいのか分からず、ただ頷いた。
「――今から一ヶ月前、大規模な少女売春組織が摘発されました。その顧客リストの中に、波野らしき男がいた」
偽名を使っていたため、これまで特定できなかったが、組織のリーダーが語った特徴とノリスケの外見は見事に一致していた。
「拙いなあ。そういう趣味の人だったですか」
90 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:10:18.07 ID:ubq+mD2k0
「波野の妻子は二週間前から実家に帰っていました。夫が貯蓄を無断で使い込んでいたのが原因だそうです」
「それって奥さんに黙って買春してたってことですか、そうですよね」
そう云うと益田は何事かを考え始めた。
「青木さん――売春組織が潰れてからひと月って云いましたよね」
「――それが何か」
「五人組の様子が変わったのもひと月前です」
青木は目を見開いた。
「組織が潰れて、欲望の捌け口を失った波野が女子高生を襲ったとは考えられませんか?でもたった一人で
五人を捕まえるのは難しい。とすれば複数犯です。黒焦げの人も――共犯者の可能性がある」
青木は立ち上がって云う。
「益田君、捜査本部まで来てくれないか」
91 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:13:37.07 ID:ubq+mD2k0
7
捜査本部は騒然としていた。
最初の事件発生から一週間が経過した今日の午後、伊佐坂甚六が自宅で両親に暴行を加えて重傷を負わせた。
隣家の磯野ワカメとフグ田タラヲが一部始終を目撃していたため、両親は直ぐに病院へ搬送、甚六は逮捕された。
甚六の母である伊佐坂軽は緊急手術中、伊佐坂難物も口が利ける常態ではないという。
伊佐坂邸内は滅茶苦茶に荒らされ、家具調度の類は悉く破壊されていた。
甚六は錯乱状態にあり、逮捕に際しても大暴れして警官2人を負傷させた。逮捕後も
泣き喚き続け、取調べ不可能の状態が続いた。
捜査本部はワカメとタラヲから個別に事情聴取を行おうとしたが、タラヲが怖がるため
二人同時に行うことになった。
タラヲの父のマスオは出張中で今日中には帰れず、母のサザエとは連絡がつかなかった。
93 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:15:55.20 ID:ubq+mD2k0
「最初に、甚六さんの大声が聞こえたの」
消え入りそうな声で磯野ワカメは云った。
「聞こえたです」
ワカメに寄り添う幼児――フグ田タラヲも追従した。
「声?」
刑事の厳しい顔に、タラヲがワカメの背に隠れる。
「――すまん。どんなことを云っていたのか、覚えているかな」
聴取に当たる老刑事は、慣れぬ穏やかな表情と口調で尋ねる。
「何を云ってたかはよく――」
「聞いてたです」
「え?」
「最初は、誰にも云うな――って聞こえたです」
タラヲが怯えながら云った。
「ほ、他には」
95 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:18:13.20 ID:ubq+mD2k0
「わかんないです。ふたり、ふたりめは――ち」
「あ!ちがうって云ってたのは聞こえました」
「二人目は、違う――か」
自分が殺害したのではないと云うことだろうか。
だとすれば必然的に、それは甚六が波野ノリスケ殺害を告白したことになる。
「他に何か覚えていることはあるかな?」
ワカメが答えた。
「声が聞こえて、私、家の塀から伊佐坂先生のお家を覗いたの」
「それで――何が見えた」
「甚六さんが伊佐坂先生を何度も蹴るのが見えました」
「そうか――君、タラヲ君、タラちゃんはどうしていたのかな?」
「僕は玄関に行ったです」
「玄関?君の家の玄関だな。それで」
「おじちゃんがいたです」
「叔父ちゃん?」
老刑事は磯野カツオの坊主頭を思い浮かべた。
96 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:21:07.16 ID:ubq+mD2k0
「お兄ちゃんのことじゃないです。タラちゃんは私のお兄ちゃんをカツオ兄ちゃん、って呼ぶから」
「じゃあ、知らない小父ちゃんかい」
「はいです」
「どんな小父さんだったかな?顔とか、着てた服なんかはわかるかな」
「唇が大きいおじちゃんです。僕が来たら吃驚して走って行っちゃったです」
――怪しい。
「共犯者――かも知れんな。坊や、それにお嬢ちゃん、他には何があった?」
「わからないです」
タラヲはそう云い、ワカメは首を横に振った。
「そうか――時に、フグ田サザエさん、君のお姉さんで、坊やのお母さんだが」
「ママです」
「そんなこたぁどうでも――すまん、ママか。ママは何処へ行った?」
フグ田サザエは今朝から行方が知れない。
「私は知りません。朝、買い物に行くって」
「お昼頃に帰ったです」
「ほんと、タラちゃん?私は見てないわよ」
「見たです」
「でも家には居なかったじゃない」
「またお買い物に行ったです。お財布を忘れてた、って云ってたです」
97 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:24:23.11 ID:ubq+mD2k0
「財布を持って、また買い物に行ったか。しかしそんな長い買い物に行くことがあるかね?」
「あるかも――知れません」
ワカメが顔を赤らめて云った。
「お姉ちゃんはうっかり者で、お買い物に行ったまま、寄り道して中々帰らないこともよくあるから」
「そ、そうなのかい」
小刻みにドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「戻りました」
そう云って、青木が取調室に顔を出した。
「フグ田サザエに就いて、一寸」
老刑事は立ち上がり、青木に歩み寄った。
「どうした?」
小声で問い掛ける。
「先程捜査員の一人が、商店街にいた主婦から聞き出した情報です。今日の午後二時頃、酒屋の店員と連れ立って歩く姿を目撃したそうで」
「酒屋の店員?またややこしいもんが出たか」
「その主婦が聞いた会話に拠れば、サザエは男に、今すぐ遠くへ行きたい――と云ったとか」
「遠く――高飛びか?否、あれは犯人じゃない」
「分かりませんが、その言葉に、酒屋の店員は、わかった、一緒に行こう――と」
「おい」
「男の勤める酒屋は三河屋というそうです。問い合わせた所、昼からサブは戻っていないと――店主が」
98 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:30:43.85 ID:ubq+mD2k0
老刑事は頭を抱えた。
「訳が分からん。甚六が暴れて黒焦げは別の犯人で――とすると、サザエが殺ったか、あれを?」
青木の背後から奇矯な声が響き渡った。
「和寅が鮪だ鯵だ赤貝だか云うから来てみれば、寿司屋でも魚市場でもない、警察じゃないか!ケーサツ!」
青木が口をあんぐりと開けて振り向く。
「え――榎木津、さん」
「あっ、コケシ山!」
鮮やかなピンクの探偵衣装に身を包んだ榎木津礼二郎が、益田を右手で押さえつけて立っていた。
「――何ですかその服は」
「下僕が献上してきたのだ。黄と青と緑もあるぞッ」
高笑いする榎木津の下で、益田が泣き声を出した。
「和寅さんに電話したのが失敗でした。聞いてたんですよこの人」
100 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:32:53.21 ID:ubq+mD2k0
「ゴキブリ男が鱸だの鰤だの昆布だの云っていたのだ。バカオロカが一人海鮮料理を食いに行ったのかと思えばこの様だ!」
――ただの勘違いじゃないか。
「――ん」
榎木津は益田を突き飛ばし、取調室入口につかつかと歩み寄った。
「変なおじちゃんですぅ」
榎木津は声を上げたタラヲを見て目を細めた。
「コドモ」
「は?」
「まだコドモだコケシ」
「え――?そう、ですね」
「――全く気分が悪い。僕は帰るぞ」
コドモだなあ――と大声で云うや否や、榎木津は
不機嫌そうな顔で一回転し、その場から去ってしまった。
102 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:35:10.46 ID:ubq+mD2k0
8
変わらないのは自分だけ――。
磯野カツオは焦燥に駆られていた。
不変と思われた日常が、十日前から崩れ始めた。
あのノリスケが、死んだ。
――しかも裸で。間抜けな顔で。尻穴が豪いことになって。
あり得べからざる事態である。
だがそれが起こってしまった。
103 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 02:37:23.20 ID:ubq+mD2k0
カツオが幼い頃、戦争があって人が沢山死んだのだという。
そんなことは全く記憶にないどころか、幼い自分などというものが存在していたことすら疑わしいとカツオは思う。
だからカツオは死を知らなかった。
死ぬのはいつも、自分の知らない、身近ではない何処かの誰かだと信じ切っていた。
それなのに。
親戚のノリスケが、殺された。
――しかも裸で。阿呆のように口を開けて。肛門を蹂躙されて。
あってはならない筈のことだった。
108 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:09:42.63 ID:ubq+mD2k0
人は死ねば生き返らないことぐらい、カツオでも知っていた。
だからこそ、自分の周りの人間に限って死ぬことは許されないと思っていた。
変わるわけがないのだから。
生まれもしないし死にもしない――。
自分の周囲で起こるアクシデントは、全てやり直しの利く瑣末なことばかりだと思っていたのに。
ノリスケが死んでから、家の雰囲気が変わった。
義兄マスオは以前から服用していた精神安定剤の量が増えた。ノリスケの死後、酷く怯えているような様子だった。
ワカメは、以前にもましてよく泣くようになった。惨死体を見たことで生じた心的外傷が、妹を臓躁的にさせるのだろう。
母はみるみる寠れていった。隣家で騒動が起こり、旧友が重傷を負うに至って遂に心を病み、遠い病院へ入院することになった。
110 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:12:48.95 ID:ubq+mD2k0
父はすっかり萎れ、カツオを叱ることは一切なくなった。
姉はノリスケが死んで以来、何だかずっと悔しそうにしていた。そして一昨日、姿を晦ました。
タラヲは――。
――どうだったか。
カツオは可愛くもあり、小憎らしくもあるあの甥のことを、決して嫌ってはいなかった。
別に大好きだと云う訳でもなかった気はするが。それでも厭うてはいなかった。
今は――わからなくなっていた。
そう。だからタラヲも変わっている。事件以来、カツオの中でタラヲの存在感は大いに薄くなった。
而して自分は何の変化もなく、こうして公園にいる。
112 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:16:07.79 ID:ubq+mD2k0
「――磯野ォ」
聞き飽きた台詞。
――野球しようぜ。
「君だったら、どうする?」
違う。お前の第一声はそれじゃいけないんだよ。
――中島。
「なぁ、答えてくれよ磯野」
級友中島弘が情けない声を出す。
座っている土管の冷たさが、尻からカツオの全身に沁みていく。
「何がだよ。解らないよ」
「ぼ、僕は或るひとに、酷いことをしちゃったんだよ」
「酷いこと?」
「僕は、君もよく知るあの人に唆されて、酷いことを――でも実行したのは僕の責任だ」
何を云っているのかカツオには分からなかった。
「酷いことをしたと思うなら謝ればいいじゃないか」
「え――うん、そうだね、そうだけど」
こわいんだ――と中島は云った。
「誠心誠意謝れば、許してくれるんじゃないかなあ」
我ながら無責任だとカツオは思う。
でも、小学生のやることなんて高が知れてるじゃないか。
114 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:20:08.45 ID:ubq+mD2k0
「――ほんとかい?」
中島が訊く。
「そうだろ。――何だよ、信じられないか?」
「踏ん切りがつかないよ」
「別に今から謝りに行けって云うんじゃないよ。気持ちの整理がついてからだって遅くないだろ?」
カツオは中島より年上であるかのような錯覚を覚えた。
――同い年なのに。
カツオは中島の肩に手を置き、云った。
「独りで空でも眺めて落ち着けよ中島。今日はほら、こんなにいい天気だぞ」
二人は同時に空を見上げた。
くっきりとした雲の欠片が浮かぶ青空は、安物の絵のようだった。
115 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:23:11.49 ID:ubq+mD2k0
「バットばかり握っているからそう云うことになるのだ、この棒オロカ」
「わああ」
突然響いた声に驚いて、中島は土管から滑り落ちた。
同時に、土管の中から緑色の衣装を纏った男が出て来た。
「君はタマを取りなさい。捕手だ」
「――だ、誰なんですか」
「坊主君は黙って拝みなさい。僕は神だから」
気が触れているのだろうか。
男はおい棒オロカと中島を呼んだ。
「は――はい」
「坊主君に相談したって無駄だよ」
カツオはやっと自分が坊主君だと理解した。
116 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:26:48.77 ID:ubq+mD2k0
「いいことを教えてやろう。謝りに行ったって如何にもならないよ」
「そんな!」
「自己満足を得て悦に入りたいなら警察にでも行くことだ。わかったな棒振り小僧!」
「な――何なんだよお前!お前なんかにわかるもんか!」
中島は中島らしくない台詞を吐き捨て、走り去っていった。
公園にはカツオと奇妙な男だけが残された。
「坊主君」
「はい」
カツオは男の顔を凝視した。
見たこともないような美形だった。
「君は――うん。わかっているか」
「何がですか?」
「何でもないよ」
そう云い残して、神は悠然と去っていった。
117 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:30:22.76 ID:ubq+mD2k0
カツオは今度こそ公園に独りきりになった。
中島は何処へ行ってしまったのだろう。
男は何者だったのだろう。
自分はこれからも変わらないのだろうか。
そんなことを考えていると、青木刑事が息せき切って公園へ駆けて来た。
「カツオ君ッ」
カツオは土管の上で立ち上がる。
「どうしました?」
「大変だ。妹さんが――殺された」
119 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:36:59.80 ID:ubq+mD2k0
◎貝児(かいちご)――――
http://up3.viploader.net/ippan/src/vlippan185518.jpg
貝おけ這子など
言へるハやんごとなき
御かたの調度にして
しばらくもはなるゝこと無ければ
この貝児ハ這子の兄弟にやとおぼつかなく夢心に思ひぬ
―――――画図百器徒然袋・中
鳥山石燕/天明四年
120 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:40:53.87 ID:ubq+mD2k0
9
どこまでもだらだらといい加減に続いている坂道を登り詰めた所に、古書肆京極堂はある。
益田龍一が母屋の客間に辿り着いたとき、其処には既に二人の先客が居た。
「あれ――容疑者先生じゃないですか」
関口巽は背を丸めてもごもごと口を動かした。
うへえ――と声を上げて、鳥口守彦が向かいに座っている関口を見た。
「先生はまた容疑者にされちゃったんですかぁ」
そうですよと云って益田も座った。
「何せ文壇の重鎮達に紛れて殺人現場に居合わせたんですからね」
「そりゃ怪しいです」
121 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 03:44:08.12 ID:ubq+mD2k0
「話し声が聞こえたから入ってきましたが――中禅寺さんは?」
益田が二人に問いかけると、関口が答えた。
「細君が出掛けているそうだ。今に茶を入れて戻ってくるよ」
「なら安心です。――ってことはお二人も来たばかりですか」
「僕は師匠に御知恵を拝借しようと赴いたら、偶然関口先生と会ったんですよ」
益田君は――と、鳥口は話を振る。
「ああ、僕は――まあ、相談ですかね」
襖が開いて、主人の凶悪な顔が覗いた。
ハルヒ最新刊がまたしても発売延期になったと聞いたかのような仏頂面だ。
家の主である中禅寺明彦は、不機嫌な顔で三人の前に茶を出した。
「僕の分も用意してくれたんですか。こりゃあどうも」
「それで――何の用だ」
鳥口が茶を飲んでから云った。
「僕は急ぎの用事でもないんで、先ずは御二方どうぞ」
「それじゃあ関口さんどうぞ」
益田は何だか気が引けて、関口に順を譲った。
「――ああ」
関口は鈍々と、ホテルで遭遇した事件に就いて話し始めた。
123 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 04:00:15.37 ID:ubq+mD2k0
内容の殆どは、益田が青木から聞いたものと同じだった。
ただ体験者である関口よりも、青木から聞いた方がずっと簡潔で理解しやすかった。
鳥口は興味深げに耳を傾けていた。雑誌記事のネタになると踏んだのだろう。
一方中禅寺は本を読みながら話を聞いていた。
あれで両方の内容を理解するのだから大したものである。
「――それで僕は、生前の波野氏とは面識もないのだが、成り行き上葬儀にも参列することになってね」
ここからは益田も聞いたことがない話だ。
「最初はお断りしていたんだが、矢張り伊佐坂先生の頼みを断れなくてね」
君は暇だからなと中禅寺が云った。
「それで、行ったんだ」
「いつですか?」
益田は堪え切れなくなって関口に訊ねた。
「解剖やら何やらが終わって、また事件が起きたと騒いでいた頃だったから――亡くなって六日後になるのかな」
中禅寺が片眉を吊り上げた。
「また――とは、海山商事の黒焦げ死体落下事件か」
「僕はよく知らないよ。でもそうだろう。確か親戚の家の――長女の旦那さんが海山商事に勤めているとか」
「フグ田さんですね。フグ田マスオさん」
関口が顔を上げた。
「君も知っているのか」
「益田君もこの事件に関わってるんですか?」
益田は前髪を揺らして答える。
「間接的に――ってとこですかね。青木さんに捜査協力ってことで色々と聞かれましたから」
124 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 04:05:10.16 ID:ubq+mD2k0
「黒焦げの死体は身許不明と報道されていたね」
中禅寺は尚も本を読み続けながら云った。
「はい。でも僕が会ったのはもう五日前ですから、捜査が進展している可能性もありますけど」
「僕の記憶ではその後の報道はなかった筈だ。仮に情報が全て公開されているとしたら、依然不明のままだろうね」
おっといけないと益田は云った。
「関口さんのお話でしたね。続けてください」
「どこまで云ったかな――ああ」
関口は波野ノリスケの葬儀の後、伊佐坂難物から自宅へ招待された。
「行ったんですか?図々しくも」
「図々しくとは何だ――まあそうだよ。葬儀の二日後だ。僕は教えられた伊佐坂邸へ行った」
最初の事件から八日目――。
伊佐坂難物と軽が、甚六から暴行を受けた翌日である。
「でもそれじゃあ伊佐坂先生居なかったでしょう。息子にしこたま殴られたらしいじゃないですか」
鳥口が云った。
「伊佐坂難物長男に暴行を受け重傷――関口君が訪ねる前日に起きた事件だ」
「僕は知らなかったんだ。家には――娘さんが居たよ」
伊佐坂家の長女で甚六の妹である浮江は、関口を発見するなり不審者と勘違いして警察に通報したのだという。
「犯罪者顔ですからねえ」
益田が軽い調子で云う。
「一連の事件の捜査本部に連れて行かれて、其処で青木君に誤解を解いて貰ったがね」
125 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 04:10:19.30 ID:ubq+mD2k0
「関口さんも災難ですねえ。大作家の目に留まったばかりに二度も容疑者にされるなんて」
「三度だ」
「おい京極堂」
「この関口君はね、パーティ前にホテルへ入るのを躊躇っていて警備員に捕まっているんだ」
「どうしてそれを――」
「敦子から聞いた」
どうやら中禅寺敦子も先に訪れていたようだ。
「――昨日、僕は伊佐坂先生の入院している茸山総合病院へ行った」
診察を受けにですかと益田は云う。
「違うよ――その、お見舞いだよ」
関口が見舞いに行くと病状が悪化するのではないかと、益田は要らぬ心配をする。
「そこで――」
「待ち賜え」
中禅寺が関口の言葉を止めた。
「君の話は一旦其処までだ」
「え――じゃあ僕ですか?」
益田は己の顔を指差す。
「君の抱えている問題も少なからず関連しているようだからね」
「わかりました」
益田は平沢憂から齎された依頼と、その調査結果を語った。青木を相手にしたときと同じように、依頼人と関係者の名前は伏せてある。
「君も容疑者じゃないか」
青木との邂逅のくだりで、関口がぼそりと云った。
127 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 04:16:08.43 ID:ubq+mD2k0
青木と共に捜査本部へ赴き、益田は甚六の錯乱とサザエの失踪を知った。
「僕ぁその――伊佐坂甚六が波野ノリスケの共犯者じゃないかと疑った訳です」
「強姦――疑惑事件のですか?」
「でも二対五ってのも、無理じゃないかも知れないけど難しいでしょ?」
そう考えた益田は波野と甚六の周辺を更に洗ってみることにした。
「どうだったんです?」
鳥口が身を乗り出す。
「いやァ。駄目ですね。行き詰まりです。
益田は大袈裟に溜息を吐いた。
「一方は事件の被害者兼少女買春容疑者、もう一方は死体第一発見者兼暴行現行犯逮捕者となると行く先々に警察が
うろうろしてる訳で、僕一人が下手に動き回ると関口さんみたいに余計な誤解を被る羽目になる」
だから方針転換です、と益田は云った。
「榎木津さんはやけに不機嫌になってどっか行っちゃったし、もう一度少女達の身辺を探ることにしたんです」
調査の末に、益田は彼女達が貸しスタジオの利用予約を入れていたことを突き止めた。
「でも予約だけで、当日彼女達は来なかったそうです。それが一ヶ月と少し前――様子が変になった日のことでした」
「別の場所に行ったのか」
「その通りですよ関口さん。でも肝心の行き先までは掴めなかった。そうして今日に至り、調査を続けていた僕は――」
拉致されてしまった。
「拉致ィ――」
鳥口が頓狂な声を出す。
「殺されるのかと思いましたよ。いやあ肝が冷えたなぁ」
128 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 04:19:38.94 ID:ubq+mD2k0
まだ続く予定なんだけど、どうにも眠いので寝ます
昼頃まで残ってたら続き書く
158 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 11:38:40.52 ID:ubq+mD2k0
保守ありがとう
起きたので再開します
161 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 11:43:48.90 ID:ubq+mD2k0
異変が起きた日の少女達の足取りを追っていた益田は、人通りの少ない路地で数人の男に囲まれた。
黒服を着た男達は目にも留まらぬ速さで益田を拘束し、目隠しをした上で自動車らしきモノの中に放り込んだ。
益田はパニックに陥って暴れたが、その途端、鳩尾に重い衝撃を受けて気絶した。殴られたのだろう。
目が覚めると、益田は真っ白な建物の廊下に立たされていた。
前には黒服の紳士が居て、益田に手荒な真似をしたことを詫びた。
紳士は、自分は琴吹家に仕える執事の斉藤だと名乗った。
益田を襲ったのも琴吹家に仕える者だという。
どうやら――益田は以来を遂行出来なかったようである。琴吹家の者に見つけられてしまった。
調査は打ち切り、憂にも詫びなければならない――益田はそう考えながら、
斉藤の案内に従って、広い部屋に通された。
大きな窓から光が差し込む、白く清浄な部屋。天井から下がるカーテンに
囲まれたベッドの上で、真っ白な肌の少女が微笑んでいた。
沢庵のような眉がきらりと輝いた。
163 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 11:47:36.01 ID:ubq+mD2k0
「――此処に至ってはもう名前も隠せませんね。僕を呼び寄せたのは琴吹紬さんでした」
「琴吹――大企業琴吹グループの関係者かな」
「うへえ」
中禅寺の言葉に、鳥口がまたも驚きの声を上げる。
「社長令嬢です。軽音楽部の、キーボード担当だそうで」
益田が少し鍵盤楽器を弾けると云うと、琴吹の令嬢は大層喜んだ。
「それでその令嬢は何と?生きて帰ったってことは処刑が目的じゃなかったんでしょ?」
「処刑じゃなかったです。彼女は――」
琴吹紬は例の夜から今まで、あの白い部屋に居るのだと云った。
斉藤に拠れば、此処は琴吹家と縁の深い病院で、この部屋は紬専用の入院個室だそうだ。
「――つまりはずっと入院してた訳です」
166 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:02:39.74 ID:ubq+mD2k0
「酷い怪我なのか」
関口が問うた。
「いえ、外傷の方は足首捻挫と擦り傷数箇所――我々の感覚じゃ入院する程のものではないんです」
「うへえ。やっぱ大企業のお嬢様ともなると親御さんも過保護になるんですかね」
「それだけじゃないようです――」
益田は逡巡した後に云った。
「お仲間には話しても構わない――と御墨付きを頂いてるので云いますね。彼女達はあの日、矢張り強姦されていました」
益田の言葉に、中禅寺の表情がより一層凶悪になった。
「五人とも――か」
「五人ともです。彼女の証言に拠れば、犯人は総勢四人」
放課後、スタジオへ向かう途中に襲われ、気絶させられたと云う。
「その後見知らぬ暗い場所へ運ばれて、それぞれが男一人ずつに別の部屋へ運ばれ犯されたようです」
益田は場の空気が沈んでいくのを感じたが、構わず話を続けた。
「連中は事が終わると、薬か何かを嗅がせて彼女らをまた気絶させ、もといた所に放置して逃げたそうです」
「令嬢は、君にどうしろと」
関口が沈んだ口調で訊いた。
「犯人グループの中で、彼女――紬さんを襲ったのは若い男、というかですね、年端も行かない少年だったそうです」
声変わりを迎えていないような声の高さだったという。
「で、彼は勢いに任せて彼女を襲って、事が済んでから急激に自責の念に駆られた様子だったとか」
虫の好い話だと益田は内心思う。
167 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:06:37.56 ID:ubq+mD2k0
「御免なさい許して下さいと何度も謝って――逃げるように部屋を出た、と。その後は意識が混濁して覚えていないそうです」
「それで――如何だと云うんだ」
「先ず犯人を見つけること。その中で紬さんを襲ったのは誰か特定すること。そして彼に、許すと伝えて欲しいと」
紬は本当に天使だと益田は思った。
「他の犯人の素性は全く不明ですから、見つけた所で報復される恐れもある。だからこそ場所を伏せての入院措置ですね」
話を聞いた後、益田は再び目隠しをして元の場所に戻された。
「許すって君」
「そりゃまあ無辜の少女達を酷い目に遭わせた連中の一人ですから、警察には突き出します。
でも、紬さんは自分を襲ったことに関しては許す――と」
少年は酷く震えていたと紬は云った。何度も詫び、誘いに乗った僕が馬鹿だった――と呟いたそうだ。
「だから、首謀者が居た訳ですね。全員、罪は罪として償って来るべきだけど――悔いていたあの少年には
許すと伝えて欲しいと云うんです」
この場にこんな話を聞くのが好きな者など居ない。皆一様に視線を落としていた。
「しかし――」
関口が口を開いた。
「犯人探しなら探偵助手より警察だろう」
「其処は親友を思い遣る彼女の気持ちですよ。警察が動けば彼女達にも事情聴取せざるを得ない。それは傷付いた心を更に抉るって
ことです。それを避けて真相究明するために、僕が隠密裏に働くという寸法で」
168 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:09:55.90 ID:ubq+mD2k0
中禅寺は漸く本を閉じて、云った。
「益田君の抱える依頼も、関口君の巻き込まれた事件も、鍵は磯野家にあるだろうな」
「磯野家――?」
「磯野家の面々に関わりある人物を調べていけば、必ず犯人に行き当たる。だが放っておけばそれも不可能になる。
先日磯野家の次女が殺害された。黒幕はこの調子であの一家を一人ずつ潰していく気でいるのだろうな」
「じ、次女が殺されたのか」
「君は何も知らないな関口君。波野ノリスケ絞殺事件発生から十日後、一昨日のことだ。磯野ワカメが何者かに殺害された。
甥の三輪車で幾度も殴られたことで脳挫傷を起こしたんだ。三輪車の指紋は拭き取られていて、犯人は不明と報道されている」
「ワカメちゃんといえば、まだ子供――確か小学三年生でしょ?」
益田は思い浮かんだ事象を整理する。
「先ず波野ノリスケが殺され――海山商事の黒焦げ死体。その後は伊佐坂甚六が両親に暴行、そして磯野ワカメ殺害、か」
「京極堂――」
関口が中禅寺を呼んだ。
「伊佐坂先生は、君の事を知っていたよ」
「僕を?――そうか」
「ある人から君の話を聞いたと――それで、僕は伝言を頼まれた」
関口の声が少しだけ大きくなる。
「君に――憑物落としをして貰いたいそうだ」
中禅寺は関口を睨む。
「誰から、何を落とす」
「君が見極めてくれ――とのことだ」
169 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:15:03.83 ID:ubq+mD2k0
客間に沈黙が訪れる。
「京極堂――」
「待て。僕は君達が来る以前に敦子から事件のあらましを聞いて、調べ物を頼んだ。後一時間も待っていれば来るだろう。
行動を起こすのは全てそれからだよ」
中禅寺は冷めた茶を一口飲んで、さて――と云った。
「二人の用件は一先ず済んだ。次は鳥口君だ」
うへえと云って鳥口は頭を掻いた。
「矢っ張り先に話すべきでした。お二人の後でするような話じゃないですよ」
「僕に知恵を借りたいと云っていたのじゃなかったかね」
「え、ええ――実はこの度、発展場の取材をしていまして」
「ハッテンバ?」
関口が反復した。
「男が好きな男の人が、交わるオトコを求めて集う場所のことです。深夜の河川敷とかがソレに当たるそうなんですが」
「欧米ではクルージングスポットなどと呼ぶそうだね」
「君はそんなことまで知っているのか」
「僕はいつぞや知り合ったオカマの金ちゃんに取材して――」
「ああ」
金ちゃんなら益田も知っていた。漢気溢れるオカマの人である。
「でも金ちゃんは発展場に集まる人とはまたタイプが違うそうで、某公園がそうらしいとだけ教えてくれたので――」
潜入取材しましたと鳥口は云った。
「そりゃまた随分思い切ったことを」
171 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:20:36.69 ID:ubq+mD2k0
「思い切ったことをして豪い目に遭いました」
「まさか君」
「違いますよ先生。筋骨隆々の、こう、正しく鱈子のような唇のオジさんに覆い被さられましたけど、間一髪逃げて来ました」
怖かったですよと鳥口は云った。
「――そこでね。発展場の記事はやめにして、何か他のネタを、と僕は考えました。
不謹慎ですが――その時目に飛び込んできたのが例の、波野殺害事件でした」
鳥口は中禅寺を見た。
「波野ノリスケの肛門には大きな擂粉木が刺さってたそうじゃないですか。僕は疑問を抱いたんです」
「疑問?」
「そういう、ブツを尻に刺すような文化は本邦に於いていつ頃からあるのかなと思いまして」
「成る程ね――」
そう云って中禅寺は顎を摩った。
「例えば、『稚児之草紙』には菊座拡張のために木の棒を挿入している様が描かれている。比叡山の稚児灌頂の次第書『弘児聖教秘伝』には――」
172 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:24:54.10 ID:ubq+mD2k0
聞くに堪えなくなった益田は手許にあった和綴じの本を開いた。
事件の度に中禅寺が引き合いに出す妖怪画集『画図百鬼夜行』と同じ作者だ。
最初に描かれていたのは宝船だった。船上で七福神が眠りに就いている。
頁を捲る。
冠、沓、布巾、払子など、器物の妖怪が続く。そして最後に――。
――栄螺鬼。
「さざえ――?」
傘のような頭部の妖怪が描かれていた。踊り狂う一瞬を切り取って描いたように、両腕は奇妙に捩れていて、
両目の下からは睫毛のような筋が伸びている。
顔面の下からは髭とも海藻ともつかない物が垂れ下がっており、妖怪の周囲には波が描かれている。
下半身が消え入って足が描かれていないため、益田は初め、それを幽霊の類だと思った。
しかしよく見れば足は消えているのではなく、左下に描かれた巨大な栄螺の貝殻から飴細工のように
伸び出ているのだった。
頭頂部の渦巻きは栄螺の蓋のようである。
173 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:31:37.55 ID:ubq+mD2k0
「栄螺鬼だな」
いつの間にか鳥口との会話を終えていた中禅寺が云った。
「――ええ。事件の関係者にサザエさんがいたもんですから、つい注目しちゃって」
でも――と云って、益田は本を見返す。
「この、栄螺鬼ですか。同じ本に描かれてる妖怪とは趣が違うようですが」
「君が持っている本は『画図百器徒然袋』の上巻だ。『画図百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』
と続いた鳥山石燕の妖怪画集の第四作にして、最終作だ。上中下の三巻から成っている」
「これだけは器なんだな。鬼じゃない」
表紙を見た関口が云った。
「そう。これに描かれている妖怪の殆どは馬具や楽器のような器物と関連付けられているんだ。だから益田君の
指摘通り、栄螺が化けたと解説される栄螺鬼は、些か場違いな感があるかも知れないね」
「徒然たぁ何です。徒然草ですか」
鳥口が訊いた。
174 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:36:22.84 ID:ubq+mD2k0
「そうだよ。『画図百器徒然袋』の妖怪は全て、先行する妖怪画と『徒然草』や漢籍のエピソードに着想を
得た石燕の創作だと考えられる。最初の二体は『徒然草』第七十二段、長冠は六十五段、天井嘗は五十五段の
記述を元に創作されたと推測出来るな」
「夢のうちにおもひぬ――って書いてありますよね、どの妖怪の解説にも。これって石燕がこんなお化けを
夢に見た、ってことで、つまりは僕の作り物でぇすと白状している訳ですよね」
益田が頁を繰るの眺めていた鳥口が呟く。
「雀海中に入りて――と云うのも徒然草なんですか?」
「雀海中に入りて蛤となり、田鼠化して鶉となる――これは徒然ではなくて『月令』に見える言葉だ。雀は大水の中
に入って蛤となり、モグラは化して鶉となるとは有り得ない造化の不思議を云う諺だよ『月令』は中国明代の書物だが、
雀が水中で別の生物に変化するという伝承はそれ以前からある。『日本書紀』斉明天皇の条、出雲の国の魚なんかが
それに当たるね。河豚ほどの大きさで数寸の針のような鱗を持ち、雀のような口の魚が北海で多数死んでいるのが見つ
かった、土地の者は雀が海中に入って魚になったもので、雀魚(すずみお)と呼ぶと語ったとある」
「蛇が蛸に変わるような話も、その造化の類か」
「山芋が鰻に、泥鰌がイモリに、雀や雉が蛤に、蛇が蛸に、柿の種が蛞蝓に、ヒトデが貝になる。
ある生物が何らかの条件で別の生物に化してしまう話は多いよ」
176 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:41:00.44 ID:ubq+mD2k0
「山芋が鰻にってのは聞いたことがありますね」
「それも諺になっているからね。有り得ないことから転じて、身分低い者が急に出世することの喩えにも
使われる。明治の頃には鰻に変わる途中の山芋が見つかったとして、図入りの記事が新聞に載ったこともあった
ようだね。江戸時代の例では、弘化二年に品川の玉蜀黍が鶏に化したと記した刷物が残されている。話を蛤に
戻すなら、歌川芳員の『東海道五十三次内 桑名』は旅人が蛤の貝殻から顔を出す雀を見ている様子を描いている。
逆に『本草綱目啓蒙』『紀伊続風土記』には、トリガイやタテガイと呼ばれる貝が夏頃に化して鳥になるとの記述が見える」
鳥口が感心する。
「とすると鳥が化けるなら貝、またはその逆――と相場が決まってたんですかね」
そんなことはないと中禅寺は云った。
「勿論鳥以外のものに変わった例もある。『想山著聞奇集』には
蚯蚓が百足になる、木の根が魚になる、そしてアサリが蟹になるとある」
「貝が蟹になるのか」
「鳥になるよりはありそうな話ですね。同じ魚貝類だし」
云った直後に益田は少し恥ずかしくなる。いずれ有り得ない。
178 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 12:48:00.25 ID:ubq+mD2k0
「貝原益軒などは『大和本草』で、どれも皆一様に有り得ることだと説いている。天地開闢の頃に
唯一存在したのは気であり、それが万物の源だと云うんだな。だから人肌の湿気からは虱が湧き、
汚水からはぼうふらが、海中の石からは牡蠣が生じる。ヤゴが蜻蛉になり、蛆が蝿になり、また
雀が蛤になるのは似たもの同士で変化することで、全く自然なことだそうだ。その逆、つまり全く
関連のなさそうな突飛なものに変化することもあるという。麦が蝶になり、山芋が鰻に化すのがこの類だね」
「何でもあり――ですね。自然の摂理としては」
「何でもありだ。有情から無情へ、無情から有情へ化すこともあると益軒は書いている。これは蟹が
石に化すように、生物が無生物になる、または無生物が生物になることだ」
これでは本当に何でもありである。
「だから石燕は、そんな何でもありの造化の不思議が存在するならば、栄螺が鬼になっても変ではないだろう――
として栄螺鬼を描いた」
「どうして鬼なんだ」
「どっちも角が生えてるからじゃないですか?」
関口の問いに鳥口が答えた。
184 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:04:12.31 ID:ubq+mD2k0
中禅寺が笑って云う。
「そんな単純な所かも知れないな。多々良君は栄螺の壷焼きから読み解こうとしているようだが」
「壷焼き。壷や――キですか。栄螺は壷や鬼になるんですよと」
駄洒落だと云って鳥口が喜んだ。
「中禅寺さん」
益田が云った。
「栄螺鬼が鳥山石燕の創作したものなら、民間に貝のお化けってのは伝わってなかったんですか?
確かに聞いた覚えはないですけど。雀が蛤に――ってのはまた少し違うでしょう。昔の学者の論理では、
蝉の羽化なんかと同じもののようだし」
「勿論ないことはない。千葉の岩和田海岸には大きな傘を広げた程の鮑がいたと伝えられる。これに
触れると暴風雨となるから、女が触って漁師を海に出られないようにして、逢瀬を楽しんだそうだ。
愛知の知多では長田貝という、頼朝に殺された長田父子の化身とされる貝が伝わる。源氏に滅ぼされた
人物の怨念は蟹になるとする地方が多いが、此処では貝になっている。山で採れると云うから、貝の
化石を指すという説もある」
「昔話でもないですか?貝が人間になるやつ」
「よく知っているな鳥口君。それは所謂異類婚姻譚――鶴の恩返しの類だね。
一般的に蛤女房の名で流布しているものだ」
「ハマグリは人気ですね。美味いですからね」
187 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:09:23.29 ID:ubq+mD2k0
「ある男が出逢った女と結婚する。女はよく働く上に作る料理が特別美味く、暫くは幸せな生活が続く訳だ」
益田はいつしか中禅寺の話に聞き入っていたことに気づく。
「ある日男は、女房の手料理が美味い理由を探ろうとして、黙って台所を覗いていた。すると驚いたことに、
女は鍋に跨って小便をしていた。男が怒るか、女が恥じ入るかして別れることとなり、結婚生活は終わって
しまう――実は女は以前男に助けられた蛤が化けていたものだった、というのが大筋だ」
「小便って――それってつまり、出汁?」
「そういうことだね。類話では魚女房というのもあるが、此方は女房が水を張った鍋に尻を浸けて出汁を採る。
九州や沖縄ではエイが嫁になるそうだ」
「エイ?エイも出汁を?」
「エイの場合は夫との間に子を設ける。これは艶笑譚的な性質が強い。『奇異雑談集』にも似た話がある」
「普通――ですね。そりゃまたどうして」
「エイの排泄口は人間の女性器に酷似しているとされるからだ。傾城魚という別名もある位で、
傾城――遊女だな。遠洋漁業に出る漁師は海上でエイを捕らえて性欲を発散したという記録もあるよ」
「うへえ」
「他に貝の昔話といえば田螺長者かな。あれはタニシの姿で老母から生まれ、試練の末に富と妻を得る話だ」
「一寸法師みたいなものですか」
189 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:13:59.91 ID:ubq+mD2k0
「おい京極堂――」
暫く黙っていた関口が云った。
「――貝は龍にもなるんじゃなかったかな。さっきの造化とは違うが」
「法螺貝だな。法螺貝は山里海にそれぞれ三千年棲んだ後、出世して龍に化身する。
全国的に伝わっている話で、『絵本百物語』に出世法螺の名前で載るものがそれに該当するね」
益田は感心する。
「貝も龍になるんですか。僕は龍になるのは鯉だとばかり――登龍門ですよ」
「法螺貝の中身は龍に似た生き物で、角と四足を具えるとする説があった。そしてこれは蛟に結び付けられた」
「ミズチ?」
「簡単に云えば龍の一種だよ。風雨を起こしたり気を吐いて幻――蜃気楼を見せるとされる。蜃すなわち蛟だね」
おうと関口が声を出す。
「其処でも貝と繋がるな。確か貝も――」
「君が云いたいのは蛤のことだろう。『彙苑』では蛤の別名が蜃となっている。これも気を吐いて空中に楼閣城市を
映し出すとされている。石燕が『今昔百鬼拾遺』に描いた蜃気楼も蛤が気を吹くものだ。これが龍と同一のもので
あるかどうかは、古来諸説あるが――まあ一般ではよく混同されている。『西播怪談実記』には、鳴門の主は大きな
蛤で、虹を吹き上げることがあったと書いてある」
「ほお――」
益田はまたも感心する。
190 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:17:59.38 ID:ubq+mD2k0
「貝の怪が沢山あるのはわかりました。でも一番人気は蛤で、あとは田螺や浅蜊や鮑――栄螺は栄螺鬼しか居ませんね」
別の本を捲っていた鳥口が唸った。
「石燕さんはまた貝の妖怪描いてますね。これ――」
そう云って鳥口は開いた頁を見せた。
六角形と思しき箱の中から、三本指の子供が這い出している。子供の結った髪には一組の貝殻が嵌め込まれている。
また、子供は笑みを浮かべて、床に散らばった貝殻を見つめている。貝殻の裏には橋や木、雲の絵が描かれている。
「貝児――」
「『画図百器徒然袋』中巻か。貝児が入っているのは貝桶だよ。貝桶とは貝合わせ、貝覆いと呼ぶ遊びに用いる
貝殻を仕舞っておく容器で、婚礼調度として重視された物だ」
「これも夢心に思ひぬ――とありますね。創作ですか」
「だろうね。貝覆いと云えば『徒然草』第百七十一段だな。――貝を覆ふ人の我が前なるをば措きて余所を見渡して」
「暗唱は分かった。要約するとどうなんだい」
「貝覆いは余所の方ばかり見ていては結局負けることになる。勝つためには手近の貝を重視しなければならない――
万事自分の近くを注意すべきであるという教訓を述べている」
そうそう――と云って、中禅寺は益田の手許から本を取って開き、再び栄螺鬼の頁を出した。
「この栄螺鬼と貝児は、実は親子なのかも知れない」
192 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:30:01.06 ID:ubq+mD2k0
「親子?どうしてです」
「先に云ったように、石燕が創作した妖怪の多くは先行する妖怪画の影響を受けている。栄螺鬼と貝児の
姿のモデルになったと推測される化物は、『百鬼夜行絵巻』の一種に描かれている」
「君がいつか話していた、大徳寺の真珠庵にあるという、あれか」
「あの手の絵巻には幾つか系統があるんだ。真珠庵のものには描かれていないが、別の絵巻には
描かれている。兎に角、原典――厳密に云えば、石燕が原典とした物と同じ絵柄の作品では、
この二体のモデルになった化物は手を繋いでいる」
「手を?」
「栄螺は後姿で描かれているが、親のように背が高い。貝児のモデルになった蛤の化物は子供のように
小さく、栄螺に手を引かれて歩いているんだ」
「サザエの子、ですか――」
益田は取調室で見た、奇妙な幼児の顔を思い出す。
「――フグ田サザエの息子はタラヲです。タラの妖怪は居ないんですか?」
益田が冗談半分で訊くと、中禅寺は居るさと即答した。
「佐々木喜善が岩手県気仙郡で採集した話で、鱈男と名付けている。気仙の姫様が年頃になった頃、毎夜
どこからか美男子が来ては、朝になると帰っていくようになった。素性を何度訊ねても答えないことを怪しんだ
侍女が、ある日男に小豆飯を食わせた。すると男は死に、正体を現して鱈になった――似た話はよくある。
人間の娘に子を産ませようと近付く異類の話だ」
中禅寺が云い終わると襖が開き、漸く敦子が顔を出した。
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194 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:36:26.87 ID:ubq+mD2k0
10
磯野カツオは高揚していた。
自分を取り囲む状況が目まぐるしく変化していく。
嘗てない大イベント。取り返しのつかない出来事の数々。
全く先が見えない。
楽しくはない。況して嬉しくもない。
どちらかといえば不快で、辛く、恐ろしい。
不思議と悲しいとは思わなかった。
そして、興奮が止まらない。
神の登場によって混乱が生じ、中島が走り去って、妹が死んだ翌日。
カツオは登校中に、妹の死を知らぬ花沢花子から驚くべき事実を聞かされた。
――ねえ磯野君知ってる。
――昨日のお昼にね。
――中島君が。
――家の屋根から飛び降りて。
――大怪我で病院に運ばれて。
――意識不明だって。
あの日、酷く落ち込んだ様子の親友は自宅に帰っていたのだ。
そしてカツオの愚かなアドバイス通り、屋根に上って空を眺めていたのだろう。
そして、落ちた。
195 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:41:09.30 ID:ubq+mD2k0
更に事態は展開した。
中島負傷の報を受けた翌日。
義兄が――フグ田マスオが殺人罪で逮捕された。
マスオは海山商事社屋内で、同僚の穴子を刺殺した。
通報した女子社員に拠れば、義兄は返り血を浴びた姿で社内外を徘徊し、奇声を発していたという。
――びゃあ゛ぁ゛゛ぁ。
――うまひぃ゛ぃぃ゛。
逮捕された後、正気を取り戻したマスオは穴子殺害を自供し、警察の追及によって磯野ワカメ殺害犯も
自分であると告白した。
穴子はワカメ殺害と黒焦げ死体落下事件の犯人として有力視されていたため、捜査陣は混乱に陥ったという。
動機に関しては、穴子には予てからの遺恨があり、ワカメは日頃の鬱憤が溜まっていたため、
勢い余って殺してしまったとマスオは語った。
確かにやたらパンツを見せまくる挙動には、カツオも苛立ちを覚えてはいたのだが。
温厚な義兄がそれだけで人を殺すだろうか。
そしてマスオも磯野家から居なくなった。
母は精神を病んで入院し、姉は何処かへ姿を消した。
妹は死んで、義兄は妹を殺して逮捕された。
残ったのは父と甥、カツオだけだった。
飼い猫のタマさえ、数日前から戻って来ない。
三人だけで使うには、この家は広すぎる。
196 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:44:32.31 ID:ubq+mD2k0
「カツオ兄ちゃん」
タラヲがいつもと変わらぬ口調で云った。
「あれ――タラちゃん、戻ってたの」
父と共に警察に話を聞かれていた筈だ。
「――父さんは?」
「まだ青木さんとお話してるです」
――青木さん。
あの刑事だ。聞いたこともない声をしていた。
あの日以来、妙な声の人間に随分出会った。
警察。小説家。探偵助手。神。
大人は皆同じような声をしているものだとカツオは思っていた。野太い、謡うような声。
「カツオ兄ちゃん」
「何だいタラちゃん」
「パパはどうしたですか?」
「さあ――」
何と答えたものか。
「ママはいつ帰って来るですか?」
答えられない。
タラヲは事情聴取に於いて、あるときから母のことを語らなくなった。
きっと、幼心にも母が疑いをかけられていると分かったのだ。庇おうとしている。
「お祖父ちゃんは元気にならないですか?」
父は家族が減っていくごとに萎れ、口数も少なくなっていった。
カツオと父は、今日はまだ一言しか言葉を交わしていない。
197 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:50:18.21 ID:ubq+mD2k0
「伊佐坂先生のお家も静かです」
隣家には今、浮江が一人居るだけだ。
「イクラちゃんと遊びたいです」
波野ノリスケの妻子とは、葬儀以来顔を合わせていない。
「タマも居ないです。僕は寂しいです」
「タラちゃん――」
待て。
何故――妹の名を呼ばない。
「――タラちゃん?」
「ワカメお姉ちゃんにも会えなくなっちゃったです」
――会えなくなった?
「どうして会えないんだい?ワカメは――」
「ワカメお姉ちゃんは逝っちゃったです」
そうだ。ワカメは死んだ。だからもう会えない。
三歳児のタラヲでも、死に就いては漠然と理解しているに違いない。
人は死ねば、還って来ない――。
それなのに――この違和感は何だ?
「タラちゃん、僕の妹は、ワカメは――」
カツオはタラヲと目を合わせて云った。
「そのお話はしたくないです」
そうか。
199 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 13:55:38.89 ID:ubq+mD2k0
違和感の正体はこれだ。
タラヲが両親や自分達のことを語るとき、その感情は多分、動いていない。
なのに、ワカメの話をしたときだけは、その目の奥に――。
――明確な嫌悪感がある。
タラヲがワカメを嫌っている?何故?
「タラちゃん、君はどうして」
「僕はおねえちゃんが好きです」
「え?」
「ママは違います。ワカメお姉ちゃんも違います。おねえちゃんは此処にはいないです」
「タラちゃん――タラちゃんの云うおねえちゃんは、何処に」
「遠い所ですよカツオ兄ちゃん」
「遠い?」
タラヲの目の奥を、残酷な稚気が往来していた。
「僕にしか行けない所です」
恐らくカツオは、やっと真実の一端を理解した。
こいつは嘘を吐いている。
「そとへあそびにいくです」
奇妙な足音を立てて、幼児が去っていく。
「ま、待て――」
一度は薄れた存在感が急激に増していく。
足音が思考を乱す。追わなければ――。
「カツオ」
甥の姿は消えて、代わりに威厳を失った父が現れた。
「カツオ、頼み事がある」
201 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:00:19.61 ID:ubq+mD2k0
11
「今さっき漸く眠ったところなんです」
茸山総合病院の一室。
二つ並んだ寝台の間で、伊佐坂浮江は林檎を剥きながら云った。
寝台の上には、埃及の木乃伊のように体中を包帯で巻かれた人物が横たわっている。
「痛みで寝返りを打つことも出来なくて苦しんでいましたから――」
林檎の皮が皿の上に折り重なっていく。
「それでは僕は、その――」
目的が果たせなくなった関口は口籠る。
戸を軽く叩く音がした直後、坊主頭の少年が顔を出した。
「あ、関口先生――」
「君は確か、磯野さんの」
「磯野カツオです。えっと――」
カツオは横たわる伊佐坂夫妻の姿にたじろいだが、息を大きく吸って室内に踏み込んできた。
「父が調子を崩したので、代わりにお見舞いに来ました」
「まあ。カツオ君のお父さんも」
浮江が意外そうな顔をする。
202 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:04:04.20 ID:ubq+mD2k0
「――でも無理もないわね。悲しい事が続いたから」
林檎を剥く手を止め、浮江は目を伏せた。
いよいよどうすれば良いのか分からなくなった関口は、只管に発汗した。
「関口先生?」
「――浮江さん、僕は先生に確認する事があって来ました」
浮江は関口を見て頷いた。
「承知しています。もし眠っている間にいらっしゃったなら、伝言を頼むと云われています」
「伝言」
「憑物を落としてくれ、費用は幾らになっても構わない――と」
カツオがぴくりと反応した。気づいた関口が体を捩る。
「君にも、訊いておくべきだね」
「な、何をですか」
「もうすぐ、君の家にこわい男がやって来る」
カツオは首を傾げた。
「その人が来て、一体何をするんですか?」
「壊すんだ」
「壊す?何を」
「何が壊されるのかは分からない。目に見える物だけじゃない。見えないモノもです」
カツオの頭上に幾つもの疑問符が浮かぶ。
204 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:08:11.37 ID:ubq+mD2k0
「だから延々と続いている不可解な事件は――それでお終いです。同時に色んなモノが壊れる」
「それって」
「僕が云うには荷が重いが、残った家族の絆や――君の世界かも知れない」
「僕の、世界?」
謎かけのような関口の言葉を、少年は必死に理解しようとしていた。
「君か伊佐坂先生が拒絶するなら男は来ない。でも伊佐坂先生は男の来訪を望んでいる。君は――」
「僕は」
カツオはいつもの明るい調子を取り戻して、云った。
「多分放っておいても――みんな壊されます」
「では」
「先生は僕の世界が壊れるって云いましたよね。その人が来ないならきっと、その内僕自身が壊されます」
来て貰って下さい――とカツオは云った。
208 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:12:31.07 ID:ubq+mD2k0
12
カツオは茶の間で正座をしてその時を待った。
向かいには腕組みをした波平が目を閉じて座っている。
隣には、フグ田タラヲが居る。
日没が近い。室内が薄闇で満たされていく。
「どうして灯りを点けないですか?」
「いいんだよ」
逢魔時――。
黄昏は魑魅魍魎の生じる時だという。
人と人でないものとが出逢う戦慄的な時間だという。
黄昏は誰そ彼なる問いに由来する。
昼夜の境目に通り過ぎる者の顔は茫洋とし、己の顔も闇に溶ける。
魔が蠢き、禍の起こる時刻だという。
音もなく襖が開いた。
波平が目を開き、タラヲがカツオに縋る。
黒い着流し。黒い手甲に黒い足袋。
闇より黒い人型が、室内に侵入した。
「誰だ君は」
波平が厳かに云った。
「憑物落としの拝み屋ですよ」
よく通る声。また――聞いたことがない声だ。
211 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:17:20.65 ID:ubq+mD2k0
「憑物落とし――我が家に憑物など居らんが」
「いいえ憑いています」
「何という戯言を――」
「僕が落とすのは、この世界に憑いた栄螺鬼と貝児です」
栄螺。サザエ――。
「さ、さざえ鬼だと。馬鹿げたことを」
波平は何故か狼狽している。
黒い男を怖れている。
「――いい加減にしなさい。先ず名を名乗れ」
「僕は中禅寺と云います」
「中禅寺君。突然上がり込んで来たと思えば、何が憑物だ。そんなものは作りごとだ」
「そう、創りごとです。何でもありの、蒙昧な世界観から紛れ込んできたものです」
中禅寺は一歩前へと進み出た。
「人は混沌に仕切りを設けて世界を創った。混沌は秩序の誕生と共に死ぬ。しかし此処は別です。
秩序を装った混沌が蔓延している。そしてそれは、ある日を境に外部をも侵食するようになった――」
タラヲは必死に中禅寺を見ようとしている。
闇の中から拝み屋を切り出そうとしている。
213 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:20:57.17 ID:ubq+mD2k0
「一連の事件は混沌の暴走が渦となったものです。あらゆるものを呑んで巨大になっていく。
いずれ渦は消えるでしょう。しかしその時にはもう、何も残らなくなってしまいます。
渦は全てを呑み込む前に鎮める必要がある」
波平は黙って中禅寺を見上げた。言葉に窮している。
「さて。僕は今、渦の際――崖に立っています。このまま渦が大きくなれば、足場ごと呑まれてしまう。
そこで渦の勢いを弱めるために、幾つか石を投げ入れようと思います」
中禅寺は襖に手をかけ、隙間を押し広げた。
茶の間への出入り口となった隙間から、次々と化物が侵入して来た。
カツオは暗中を移動する者達を見詰める。
陰鬱な表情の関口が先陣を切り、自称探偵助手の益田が続く。
続いて青木が入り、自分が出てきた闇に向かって頷いた。
すると、複数の警官に脇を固められて、伊佐坂甚六とフグ田マスオが室内に足を踏み入れた。
「パパ!」
タラヲが駆け出し、マスオの脚に抱きつく。
マスオはぐらりと揺れてその場に倒れこんだ。
「ああタラちゃんか――吃驚したなあ」
虚ろな顔のまま云って、マスオはいつもの席に就いた。
タラヲは呆然とそれを眺め、不満げに指を咥えた。
波平は驚愕の表情で闖入者達を見回している。
214 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:24:44.63 ID:ubq+mD2k0
「こ、これが君の云う石か」
「まだ二人、残っています。さあ入ってください」
中禅寺に導かれ、新たに二つの影法師が侵入する。
「――姉さん!」
カツオは思わず立ち上がった。
最後に茶の間へ姿を見せたのは――フグ田サザエと三河屋の三郎だった。
「ママー!」
タラヲが再び駆け、母の脚にしがみ付く。
「――ただいま、タラちゃん」
いつになく優しい口調で云って、サザエは息子の頭を撫でた。
「サ、サザエ――お前今まで何処に!それにマスオ君や甚六君は逮捕されて――訳が解らん」
「いずれ理解できますよ磯野さん。――さあ」
渦を鎮めましょうと云って、中禅寺は後ろ手で襖を閉めた。
「それぞれ面識のない人物が居ることでしょう」
中禅寺は茶の間に集った人間達を順に紹介した。
「彼は僕の知人で小説家の関口巽。そして薔薇十字探偵社の益田龍一。警視庁捜査一課の青木刑事を
はじめ、波野ノリスケ殺害事件捜査本部の皆さん。彼が伊佐坂難物先生の長男である甚六さん。
それから三河屋酒店の三郎さん」
「後は――儂の家族だ」
「殺人事件の容疑者として逮捕されたフグ田マスオさんとその妻のサザエさん。その弟のカツオ君に、息子のタラヲ君。
そして磯野――」
「磯野波平だ」
そう云った後、波平はランプに火を灯した。闇が幾らか緩和される。
216 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:28:26.40 ID:ubq+mD2k0
「そうですか。波平さん――お兄さんはお元気ですか?」
「何を――」
波平の顔色が変わった。
「磯野波平さんには海平という名の、双子の兄が居る筈ですが」
「どうしてそれを」
中禅寺は懐から一冊の本を取り出した。
「これは戦前に民明書房から出版された『名士子孫伝』という本です。江戸から明治期にかけて逸話を残した
人物の子孫を取材し、知られざるその後の繁栄や歴史の側面を書き出した名著です。しかし完成直後に著者が病死、
版元も倒産して原稿が失われたことで、少部数しか世に出回ることがなかった稀覯本です」
「それが何だ」
「覚えがありませんか?貴方達兄弟も取材を受けていますが」
中禅寺は本を開き、その場にいる人間達に見せた。
粗い白黒写真。瓜二つの顔をした少年が、白い歯を見せて笑っている。
「磯野家本家の長男と次男・海平君と波平君――とキャプションが付されています」
「あの――すいません」
益田が怖ず怖ずと申し出る。
「磯野さんのご先祖の方って有名人だったんですか?寡聞にして知らないんですけど」
「幕末の黒田武士に磯野藻屑という人物がいた」
「黒田武士?じゃあ福岡か」
関口が云った。
218 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:32:04.87 ID:ubq+mD2k0
「九州では、彼が彼岸に殿様の前でおはぎを三十八個平らげた話が半ば笑い話のようになって流布しているが、
実際の所、普段は実直な忠臣だったようだね。彼の正式な名は――磯野藻屑源素太皆という」
「みなもとの、すたみな?」
「左様。つまり儂の家は源氏の系統だ」
「そのようですね。しかし問題とすべきなのは其処ではなく、素太皆の方です」
何が云いたいのかわからない。カツオは動向を見守った。
「素太皆――心身ともに平素より太く丈夫にあり主に忠義を尽くすよう、との意味が込められた名だと
この本には書いてある。そして素太皆の音は英語のstaminaに通じる」
それがどうした――波平が反抗する。
「勿論、これは音が似ているだけで英語とは全くの無関係、偶然の一致と見るのが妥当でしょう。
しかしそうは考えなかった者達が居た」
220 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:36:04.16 ID:ubq+mD2k0
隠れキリシタン――と中禅寺は云った。
「江戸幕府による禁教令のために基督教を偽装棄教した人々です。特に九州地方に多く存在したことは御存知ですね?」
波平は頷いた。
「信徒達は長い潜伏の間、表面上は寺の檀家を装いながら、いつかローマの御頭様、つまり教皇から
パーデレが派遣されてくることを心待ちにしていました。しかし信仰を伝えていく過程で教義は変容し、仏教、神道、
その他の土俗信仰と結びついて独自の混成的宗教に姿を変えていった。現在でも少数ですが隠れキリシタン独特の
信仰様式を継承している人々が存在します」
中禅寺の言葉を邪魔する者は居ない。
家族達は皆、この男に対応するための言葉を知らないようだった。
「隠れキリシタンの信仰生活はオラショを中心として組み立てられている。これはポルトガル語で祈りを
意味するものです。日常生活の他、子の誕生や葬式のような人生の節目、年中行事、或いは災害などの不幸に応じて
様々なオラショを唱えてきた」
「それが一体何だと」
「オラショの多くは秘密裏に口承される中で言語が著しく転訛して意味不明な暗号のようになったり、
誤謬がそのまま定着して難解になっています。独自の文言や解釈が後付されている場合すらある」
「訛りですか?」
「そう。イエスキリストはじょーずきりしと、ぜずすきりしと、ぜすき里人などと呼ばれる。聖マリアは三た丸屋、
聖体を意味するエウスカリチヤは八日の七夜。洗礼を意味するバウチズモは場移り島、聖ガブリエルアルカンジョは
サンガ森やあるかん所、守護は四五、聖霊はすぴりつさんと、ルシフェルはじゅすべる。
予備知識なく聞いただけではまず理解不能です」
226 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 14:55:01.96 ID:ubq+mD2k0
大人達は術にかかったかのように沈黙している。
「素太皆も彼らにとっては、異国の言語が形を変えたものであるように思えた。ポルトガル語と英語の違いはありますが、
どう伝播したものか、いつしか磯野藻屑源素太皆は隠れキリシタン達の間で、自分達と同じ信仰を持つ人物だと目されるようになった。
そして忠臣としての評判の数々、人柄を示すおはぎの逸話――彼は隠れキリシタンから支持されるようになっていった」
「馬鹿な!」
波平が怒鳴る。しかし言葉を継ぐことが出来ない。
「やがて支持は非隠れキリシタンの人々にも拡大しました。此処で磯野藻屑は困惑する。邪教の徒であるキリシタンを摘発すれば、
彼らが自分を支持した理由を語ることで要らぬ疑いをかけられる。大っぴらに隠れキリシタンの疑いがある人たちと懇意にする
のも危険だ。そこで彼は一計を案じたのです」
そう云って中禅寺は波平、サザエ、カツオ、タラヲを順に見た。
「一部の信徒が藻屑をキリシタンだと推測したのは、藻屑、素太皆という、人名にしては異様な響きと字面です。
磯野藻屑は市井の人々から一族が変わらぬ指示を受けることを願って、子孫に魚介や海に関連する名を付けさせた」
藻屑――海――波――栄螺――鰹――若布――鱈。
「隠れキリシタンがイエスやマリア、聖人の像を神仏に偽装したように、磯野家は基督教に関連する言葉を魚介の名に偽装した
――そう考えるように仕向けたんです」
231 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:09:03.93 ID:ubq+mD2k0
「ああ――実際には単純に魚介類の名前を付けただけなのか」
「普通の人は変わった名前だとしか思わないけど、隠れキリシタンの場合には、
あれは実は儂等と同じように隠れて神様を信じとる証なんじゃ――と思われる仕掛けなんですね」
関口と益田の言葉に中禅寺は頷く。
「――磯野さんはこのことを知っていたんだ」
「そ、そんなことは知らん!」
一同に驚きが走り、視線が波平に集中する。
「――そうですね、磯野海平さん」
海平?
「待って下さい。此方は磯野波平さんで、海平さんは九州に住まう兄ではないのですか」
「青木君。僕は九州へ行っている友人に頼んで、磯野家本家を訪ねて貰った。
――其処では、海平さんは三ヶ月前に亡くなったことになっていたよ」
波平か海平なのか判然としない男は、額に脂汗を浮かべている。
「どうやら誰もご存知なかったようですね。この人は海平さんだ。三ヶ月前から波平さんと入れ替わっていた」
「えぇ!それじゃあ僕達は三ヶ月も海平伯父さんを、お義父さんだと思って暮らしてたのかい?」
マスオが初めて声を上げた。余程驚いたのだろう。
234 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:13:14.52 ID:ubq+mD2k0
サザエが云う。
「中禅寺さん。私達は海平伯父さんが亡くなったなんて話は聞いていませんわ。曲がりなりにも血縁者、何か連絡があって然るべきです」
「連絡が来ないのは当たり前です。海平さんは自身の死を偽装する前に、本家と東京の磯野家との縁を一方的に絶っていましたからね」
三ヶ月。
カツオは思う。三ヶ月前から、日常は崩壊し始めていたのか。今の今まで父と思っていたのは伯父だったと云うのか。
三ヶ月も前から。否、三ヶ月など変わらなかった無限の時間に比べれば、ほんの一瞬か。
「御一新前後に交流の出来た隠れキリシタンの子孫は、今や福岡の磯野家の良き近隣住民となっていました。
過去の因縁は両家とも忘れ、殆ど風化した状態にあった。海平さんは其処に目をつけて、波平さんが東京へ出たのは
先祖代々の邪教の徒との繋がりを知り、それを絶って新しい生活を送るためだったと理由付けをした」
カツオの父に似た男は黙したままでいる。
「過去はどうあれ、今は親しい間柄。それを否定するとは何たる不届き――海平さんは激怒する様を家族に見せ付けた。
そして三ヶ月前に、不治の病に罹った波平さんと入れ替わった」
「不治の病?」
「だから本家で亡くなったのは波平さんの方なのです。波平さんは海平さんだけに病のことを伝え、
入れ替わって生活するよう依頼したのでしょう。東京の磯野家が少しでも長い間、今までと変わらない生活を送れるように」
サザエがわっと泣き出した。
235 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:17:56.01 ID:ubq+mD2k0
マスオが中禅寺に問う。
「そんな――死は誰にでも訪れるものじゃないですか。どうしてお義父さんは其処までして、
平和な生活を守ろうとしたんですか?」
「貴方も薄々気付いている通りです。追々はっきり分かるでしょう」
正体を見破られた磯野海平は、沈痛な面持ちで下を向いている。
甚六は恐怖と戸惑いの入り混じった表情で、室内の面々を見回していた。
「わはははははッ」
突如高笑いが響き、勢いよく襖が開いた。
「狭い。狭い茶の間に馬鹿が鮨詰めになっている!」
敷居の上に立ちはだかる男。腕には磯野家の飼猫タマが抱かれている。
「え――榎木津さんじゃないですか!」
「そうだ僕だッ!お前達のために来てやったぞ!そしてこのにゃんこはかまぼこだ!」
――タマなのだが。
「何者なんだこの男は!」
海平が怒鳴る。
「彼は薔薇十字探偵社の探偵で榎木津礼二郎といいます」
「分かったか変態ども!僕が探偵だ」
237 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:22:00.51 ID:ubq+mD2k0
「榎木津さん――何で猫なんか抱いてるんですか」
「そ、それはうちの飼猫のタマです。少し前から家に帰らなくて」
益田の問いに、カツオが代わりに答えた。
「犬猫を捜すのは下僕の仕事だって云ってたじゃないですか」
「煩瑣いぞマスカマオロカ!」
マスオが怯気りと反応した。
「僕はペット捜しなんかしていない。ただこの白にゃんこと戯れていただけだ。そんなことも分からないからカマなのだ」
「カマじゃないですって」
「黙れカマドウマ。竈に入ってアンパンと一緒に焼かれてしまえ」
榎木津が益田に浴びせた罵詈雑言を聞いて、何故かマスオが狼狽した。
「――では、全員の名前が明らかになったところで、それぞれの事件の真相をお話ししましょう」
全員の視線が中禅寺に集まる。
「最初の事件は、伊佐坂難物氏の受賞記念パーティー会場で発生した、波野ノリスケ殺害事件です。
捜査本部ではこう命名されましたが――実際には波野ノリスケ死亡事件と、遺体損壊事件の二つに分けることが出来る」
警官達が動揺する。
239 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:25:54.67 ID:ubq+mD2k0
「波野の遺体は発見時、全裸にされて首には麻縄、肛門には特大の擂粉木という無残な姿だった。
しかしこれらは全て、波野ノリスケの死後に施されたものです。そうですね、サザエさん?」
「はい」
サザエは毅然として答えた。
「服を剥いだのも、首を縄で締め上げたのも、アヌスを目一杯拡張したのも私です」
「ど、どうしてそんなことを――」
マスオが弱弱しい声を出す。
「我慢出来なかったのよ。御免なさい貴方」
「サザエ――?おい、止せよ」
サザエは警官達に云った。
「私は夫以外に、複数の男性と性的関係を持っていました。数は――分かりません、沢山です」
「止めろサザエ」
「もういいのマスオさん。――私はノリスケとも関係を持っていました」
「え――」
マスオが呆然とする。
「やがてノリスケは私の秘密を握ったと調子に乗り、私を脅すようになりました。淫乱、淫奔な雌豚、
このことをハゲに知られたくなければ云うことを聞け――と。父にこの秘密がばれることだけは避けたかった。
だから私はノリスケに従って、売春をさせられることになった」
「ノリスケ君がそんな酷いことを――」
卓上に置かれたマスオの手がわなわなと震える。
242 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:29:43.81 ID:ubq+mD2k0
「躰を売って得たお金は全部ノリスケに取られた。ノリスケはそのお金で、まだ成人もしていない女の子を買っていました」
買い物途中の長話をしている――カツオ達がそう思っていた時間、サザエは淫売婦となっていたのだ。
「醜く肥えて、タイコさんにも相手にされなくなったところを拾ってあげたのに――無能の癖に驕るノリスケを
許せなかった。でも秘密を守り通すために、私は従うしかなかったんです」
カツオは姉が野太い声の男と番う光景を想像する。吐き気がした。
「パーティーの日も、私はこっそりトイレに呼び出された。パーティー参加者を相手にしろと。
でも約束の時間に其処へ行ったら――ノリスケは死んでいた」
中禅寺が言葉を継ぐ。
「貴方は悔しかったんですね」
「――はい」
「自分を散々食い物にした挙句、勝手に死んでしまった波野ノリスケに怒りを感じた」
「仰る通りですわ。だから私は――やり場のない怒りを、あの死骸にぶつけた。ゴミ捨て場に運んで、バケツの水を浴びせ」
怒りに任せて服を剥いで引き裂き、切り刻んで、蹴り飛ばし、叩き付け、首に縄を巻いて力任せに締め上げる。そして肛門に――。
「その行動が、結果的に捜査に混乱を齎したのです。捜査陣は女性の犯行だとは考えなかった」
「そんな――」
「臓躁性格の持ち主、屍姦趣味者、加虐趣味者、同性愛者――遺体を見た者は皆、そうした先入観を抱いてしまったのですよ」
「捜査を混乱させてしまい――申し訳ありません」
中禅寺はカツオに云った。
「栄螺は鬼になる。山芋は鰻に、雀は蛤に、海星は貝に変化することがあると古の書物は説いている」
「そ、そんな不思議なことがあるんですか」
「――この世には不思議なことなど何もないのだよ、カツオ君」
中禅寺はそう云った。
244 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:34:42.71 ID:ubq+mD2k0
「似たものから似たものへ――海平さんは波平さんとなり、あるものが全くの別物に――サザエさんは性的倒錯者の男へと変わった」
青木が訊ねる。
「では――波野ノリスケを殺害した真犯人は誰です!」
「お――俺じゃないッ」
獣のように唸って、甚六が暴れ出す。
即座に複数の警官に取り押さえられた甚六は、濁った目で中禅寺を見た。
「分かっているよ。君は-――人殺しはしていない」
「中禅寺さん」
顔面蒼白になったマスオが云った。
「ぼ、僕が殺した――ようなものです。僕は」
同性愛者なんです――と、マスオが云った。
「その探偵さんにはお見通しだったようですね。僕は同性愛者です――サザエよりずっと淫蕩な、性的倒錯者です」
マスオはがくりと項垂れた。
「僕はずっと、ノリスケ君を狙っていた。彼と繋がりたいと願っていた。そしてあの日が、実行のときだと思いました」
海平が侮蔑の視線を送る。
「ば、馬鹿なことを」
「ええ、馬鹿です、本当に――。彼が便所に入ったのを見計らって、僕もホイホイついて行った。僕が言い寄ると、彼は云いました――」
――マスオさん、受けですか、攻めですか?
――僕はね、誘いは拒まない性なんですよ。
――さあ、お好きにどうぞ。
245 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:39:47.10 ID:ubq+mD2k0
「そう云って彼は尻を差し出してきた。綺麗なお尻でした――僕は欲望のままに両性愛者の彼を姦した。
野獣のように腰を振りました。僕が絶頂に達する寸前、彼が痙攣し始めた。トコロテンだ――そう思いました。
でも彼はイったと思ったら、そのまま本当に逝ってしまった。恐ろしくなって僕は逃げ出しました」
一同の表情が複雑なものとなる。
こんな告白を聞かされたのでは無理もないとカツオは思う。
そのカツオもまた、淫靡さの欠片もない光景を思い浮かべて嘔吐寸前だった。
「――冷静になってみれば、僕はとんでもないことをしたんだと思って、便所に戻りました。
数分の間だったと思います。数分の間にノリスケ君は、確実に死んでいたのに居なくなっていた。
恐ろしくなった僕は慌てて、飛び散った彼の体液を拭いて逃げたんだ!」
「何じゃそれは――ノリスケが絶頂死した後にサザエが死体を運び出し、鬱憤を晴らしておったと云うのか」
海平が大きく口を開ける。
「マスオさんとの情交の痕跡は、サザエさんが棒を捩じ込んだ所為で腸壁が傷付き、消えてしまった。
サザエさんが発見したとき、まだノリスケは僅かに息があったのかも知れない。兎も角首を絞められたことによって
蘇生不能になり、遺体は甚六さんと旧友の調理師に発見された。これが一つ目の事件の真相です」
「彼は――フグ田マスオは後にワカメ殺害と穴子殺害を自供したんですよ?何故このことだけは黙っていたんですか」
「それはね青木君、サザエさんに累が及ぶことを危惧したからだよ」
「貴方――」
サザエが項垂れたままのマスオを見る。
248 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:45:19.76 ID:ubq+mD2k0
「僕は、僕は同性愛者ですが、人生の伴侶として信頼し、尊敬していました。最初こそ社会を欺くための見合い結婚だった。
けれど二人で生活する内、彼女の気丈さ、陽気さに勇気付けられるようになりました。おかげで僕の精神状態も
上向いた。だからこそ性の不一致を認めて浮気を許していました。僕は――彼女に迷惑をかけたくなかった」
夫婦は同時に泣き崩れ、渦の勢いが少し殺がれた。
「次は――海山商事の黒焦げ死体だ」
窓の外の闇は濃さを増している。
「簡潔に云いましょう。黒焦げ死体は磯野波平さんです。落としたのは――貴方だ、海平さん」
海平が息を呑む。
「海平伯父さん!」
サザエとマスオが同時に名を読んだ。
「わ、儂は――何故」
何故分かったと云って、海平は禿げ上がった頭を抱えた。
「波野ノリスケの死後、貴方は家族にも秘密で休暇をとっていましたね」
「あ――そうだ。その通りだ」
「勤務先へ問い合わせれば明らかになることです。その時九州の磯野家へ行った。そうですね?」
「――そうだよ」
カツオには海平が自棄になっているように見えた。
「そして波平さんの死体を持ち去って加工し、忍び込んだ海山商事の屋上から投げ落とした」
「えぇ?」
マスオがまた声を上げた。
「中禅寺さんのお話だと、お義父さんが亡くなったのは三ヶ月前だとか――
それじゃあとっくに御葬式も終わってるでしょう」
250 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:50:02.89 ID:ubq+mD2k0
「本家は田舎だからな――まだ土地もある。だから土葬なんだ。儂は以前にも出張や有給を利用して
東京と九州を行き来しておった。埋められた波平を掘り起こして、本家の土蔵の奥に隠しておいた。
それが弟の――遺言でもあったからな。冷たく暗い蔵の奥に入れた骸は、驚く程に長持ちしたわい」
「お父さんの、遺言?」
カツオは思わず口に出して云った。
海平が哀れむように答える。
「左様。波平は自分の体が死後にも何か役に立つかも知れぬと――実際役に立った、
いや、立ったと思った。ノリスケが死んだとき、マスオ君の周章ぶりと、高揚した様子のサザエを見て、
儂はサザエが殺ったんじゃないかと勘繰った」
サザエが手で口を押さえ、マスオは嗚咽を漏らした。
「儂はこの家を変えさせることを避けたい一心で-――波平の骸を加工して、海山商事の屋上から落とした。
身元の判らん死体を――事件の渦に投じることで、サザエを少しでも疑惑の目から放そうとしたんだ」
海平の顔は、汗と涙に塗れていた。
「儂と弟は似ておってなあ――毛を抜くだけでもう、見分けもつかん。誰も気付かんかっただろう」
「それは違います」
「なに?」
「フネさんは気付いていましたよ。貴方と自分の夫とが入れ替わっていたことに」
海平が硬直する。
「僕は此処を訪れる前、筍里医院へ行き、入院中のフネさんに面会してきました」
「な――」
「彼女だけは突然夫が入れ替わったことに気付いていた。しかし理由を問うことも出来ず、またそのことを
気に病み続けていた――そしてノリスケが死亡し、黒焦げ死体が娘の夫が勤める会社に落ち、唯一の心の
拠り所となった親友の伊佐坂軽さんが重傷を負い、精神を消耗し、遂に倒れた」
「そ、それでは、儂の所為ではないか」
「フネさんは貴方達兄弟の行動が、家庭の平穏を保とうとせんがためのものと理解していた。だからこそ黙っていたのです」
海平の目から涙が零れ落ちた。
251 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 15:54:38.44 ID:ubq+mD2k0
「僕より前にサザエさんも見舞いに訪れていた。彼女はフネさんにだけ、
新たに関係を結んだ三郎さんと共に隠れている場所を告げていたんです」
室内に何度目かの静寂が訪れる。
「これで――栄螺鬼は落ちた。次は貝児だ」
カツオは、中禅寺がタラヲの様子を微細に窺っていることに気がついた。
「カツオ君、僕が来てしまったからには、全てを解き明かさなくてはならない。いいね」
「はい」
カツオは覚悟を決めた。
「時系列順に行きましょう。第三の事件――伊佐坂甚六による、難物と軽への暴行だ」
甚六が中禅寺を睨む。
「真相も何もないよ。ストレスが溜まってたから親を殴っただけさ」
「そのようですね。数日間、極限の緊張状態にあったようですからね」
「違うよ。受験勉強のストレスで――」
「自分も殺されると思っていたのでしょう?」
中禅寺が声の調子を下げた。
「波野ノリスケの次は自分なのではないか――そう思ったのでしょう。波野と君の接点は、
ただ家に頻繁に出入する父の担当編集というだけではなかった。知られてはならない、裏の繋がりをもっていましたね」
「えぇ?まさか甚六君も衆道に目覚めたのかい?」
マスオが興奮気味に云った。
「俺はホモじゃない!こっちに寄らないでくれ!」
「マスオさん、残念ながら甚六さんは同性愛者ではありません」
中禅寺は甚六に歩み寄り、悪魔のように囁いた。
「――少女を強姦したな」
252 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:00:28.45 ID:ubq+mD2k0
甚六は叫び声を上げ、警官達の拘束を振り解こうと暴れた。
「中禅寺さん!それじゃあ波野ノリスケの仲間で、例の少女達を襲った連中の二人目は、伊佐坂甚六なんですか?」
益田は戸惑っていた。
「但し二人とも首謀者ではない。黒幕は――貝児だよ」
「貝――児?そんな、まさか!」
「黒幕は後回しにして、今は甚六さんだ。さあ甚六さん――何を云われて暴れ出した。何を見つけられた」
床に押さえつけられた甚六がうう、と唸った。頬に畳の跡がついている。
「カメラ――だよ」
「ほう」
「俺は――あんたの云う黒幕に命令されて、裸に剥いた娘達の写真を撮ってきていた。
そのカメラが掃除中の母親に見つけられたんだよ。親父がそれを見て、嗤いながら云った」
――変なものでも撮っているんじゃないだろうな。
――違う。
――遊びに耽るのもいいが、近頃は勉強が疎かになっておるようだな。
――違うッ。
「今思えばいつもの冗談、軽口の類だったよ。でもあのときはノリスケさんが殺されたと思って、
あの娘達の親か何かが復讐に来ると思って錯乱してた。だからその一言が引き金になって――暴れた。殴った。蹴った」
「調度品と共にカメラは破壊したようですね。既に暴力事件を犯してしまったというのに、そんなに――黒幕が怖いですか」
「ああ怖いよ。あんた知ってるんだろう。俺は独りであんなものに喧嘩は売れない。
まともになれば異常者扱い――今でももう異常者だけどな」
あれは化物だ――と、甚六は意味の分からないことを口走った。
253 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:04:50.34 ID:ubq+mD2k0
「云ったでしょう。僕はまだ世界を呑む渦の外側に居る。渦に呑まれて振り回されている君とは違う」
中禅寺さん――と青木が呼ぶ。
「それではワカメちゃんとタラヲ君の証言と食い違いがあります」
そうだ。
ワカメとタラヲは確か、甚六が二人目は違うと云っていたと証言した筈である。
「端的に云えば――嘘だね」
中禅寺は冷徹に云い放った。
思考を巡らす青木を見て、益田が云う。
「それから、唇の厚い怪しげな男が居たとも――云ってましたよね?それって次に殺された穴子で、強姦事件の共犯者なんじゃ――」
「益田君、それも違っている。二人の幼子の証言は、世間と捜査陣を混乱に陥れるための嘘なんだ」
ワカメとタラヲが嘘を吐いていた。
カツオは思わず反論する。
254 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:09:13.23 ID:ubq+mD2k0
「でも――そんな、混乱に陥れる為だなんて!甚六さんを庇おうと云ったことかも知れないじゃないですか」
「二人目は違う、怪しい男が居た――と証言しても甚六さんが両親に暴力を振るった事実は何ら変わらないよ。
先に起きた事件や男の素性が暴行と繋がらなかった以上、矢張りこれは混乱させるための嘘なんだ」
甚六君、と中禅寺が呼びかける。甚六は怯えた目で黒衣の男を見返す。
「君の云う化物――黒幕は、君が捕らえられても自分のことを話すわけがないと考えていたようだね。
君の考えた通り、見たままを話せば嘘を吐いているか、心神喪失状態か――馬鹿だと思われる」
「おいやめろ」
「浪人生の君にとって、馬鹿扱いは何としてでも避けるべき評価だったんですね」
「そうだよ」
当然の如く甚六は答えた。
馬鹿ではなく狂人である。
受験戦争、学歴社会が甚六を狂わせてしまったのか。
カツオは間近に居る喪男に憐憫の情を抱いた。
「時を同じくして、磯野サザエが三河屋御用聞きの手を借りて出奔する」
サザエと中禅寺が対峙する。
258 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:14:25.90 ID:ubq+mD2k0
「お、恐ろしくなったんですわ――死体損壊の罪が明らかになるんじゃないかと」
目が泳いでいる。
実に分かりやすい。嘘だ。
姉の狼狽を読み取り、情夫が助け舟を出す。
「ぼ、僕が唆したんですよ。サザエ――若奥さんを独占したかったんです。だから事件に乗じて、
一緒に逃げましょう、と」
三郎がちわーッとか三河屋でーすッとか云わない。
途轍もない違和感にカツオは目眩を覚えた。
「だから若奥さんは何も悪くないんです。僕が唆したから――」
「黙れカツマタ」
「カツマタ?」
探偵の妄言が理解できず、三郎は沈黙した。
中禅寺がサザエを睨む。
「サザエさん。今更嘘を吐いても駄目ですよ。僕を招き入れたのは貴方だ。それなのに自分だけ
無事で逃れようなどと思わないことですね」
姉が陰陽師を招き入れた?
伊佐坂の依頼を受けて来たのではないのか。
262 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:19:33.54 ID:ubq+mD2k0
「待てよ京極堂。僕は伊佐坂先生から君への依頼を受けたのに」
「その伊佐坂先生に僕のことを伝え、憑物落としを依頼するよう仕向けたのがサザエさんなんだ。
彼女は独身時代に女性運動の団体に所属していた時期があったからね」
カツオもその話には覚えがあったが、良く思い出せなかった。
遠い遠い記憶だ。誰から聞かされたものか、覚えていたということを覚えているだけだった。
「その頃の仲間との交流が今も絶えてはいなかった」
青木が膝を打つ。
「まさか――彼女はその繋がりから、織作家の事件の断片を知ったのですか?」
「葵さんとサザエさんには共通の知り合いが居たらしい」
「まるで蜘蛛の再来だ――」
関口の呟きを中禅寺は切り捨てる。
「そんな巧緻なものじゃない。この人は渦を起こしただけだよ関口君」
「――無い知恵を精一杯に絞った結果です。矢張り言い逃れは出来ないのですね」
サザエは目を伏せた。
264 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:25:00.80 ID:ubq+mD2k0
「次に起きたのは磯野ワカメ殺害事件。犯人は――」
「ぼ、僕だ」
マスオが震えて云った。
「僕が殺しました」
「ほう――」
中禅寺が目を細める。
「何故息子の三輪車で殴り殺すような胡乱な手段をとったんですか?」
「えぇ?そ、それは、そうだ、突発的な犯行だったからですよ、刑事さんにお話しした通りです」
カツオは姉の様子を窺い見る。
人生の伴侶として信頼していたはずの夫が妹を殺したと知って何を思っているのだろう。
サザエは――酷く悲しそうな表情をしていた。
だがその視線は夫ではなく、息子に向けられていた。
「矢鱈に下着を見せ付けてくるのが不快だったと――そうなのか、タラヲ君?」
中禅寺の視線がタラヲに突き刺さる。
「中禅寺さん!貴方は僕と話しているんじゃなかったのかい?」
マスオが慌てて中禅寺を見る。
中禅寺は冷酷に答える。
「――真犯人に訊かなければ意味がありませんからね」
「え――」
266 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:29:53.27 ID:ubq+mD2k0
室内の誰もが愕然とした。
多くは三歳児が殺人を犯したという事実に対する驚きだろう。しかし、サザエ、マスオの驚きは
自分と同じく、誰もが云えなかった真実を中禅寺があっさりと告げたことに起因するものだろうとカツオは思った。
それまで口を噤んでいた老刑事が身を乗り出して云う。
「そんな馬鹿な筈があるか!あんたな、この子は三歳児だぞ。ひ、人殺し、それも姉のように慕う叔母を
殺すなんて大それた事が出来る訳ないだろ」
そうだろう、と老刑事はタラヲに返事を促す。
甥は、事情を呑み込めていないような無垢な面を作って云う。
「僕は悪い子じゃないです。ワカメお姉ちゃんを虐めたりしないです――」
うわあああん――とタラヲが声を上げ泣き出した。
――白々しい。
カツオはまた中禅寺を見やる。
拝み屋は悪鬼の形相でタラヲを睨んでいた。
「嘘泣きは止せ」
「わああぁ――え?」
虚を衝かれ、タラヲが素に戻る。
「犯人は君だ、フグ田タラヲ君」
267 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:34:20.71 ID:ubq+mD2k0
「ば、ばかもん――」
既に土気色の顔になっている海平が弱弱しく云う。
「幾ら何でも荒唐無稽に過ぎる!タラヲが、タラちゃんが人殺しなどと、馬鹿を云うな!」
「そっ、そうですよ中禅寺さん!犯人は僕です!ワカメちゃんを殺したのは僕だ!」
男二人が必死になってタラヲを守ろうとしていた。
その様子を見て、タラヲはあろうことか微笑していた。
「――想像以上に貝児が強く取り憑いている。マスオさん、貴方は守るべきものを見失っている。
これでは本末転倒だ。海平さん、貴方もだ。貴方は父親面をして、自分の最後の威厳を保とうと
しているようですが、無駄です。吹けば飛ぶような脆弱なものですよ。武士の末裔と誇るなら潔くしたらどうです」
呪いの言葉が作用し、二人は金縛りに遭ったように動きを止めた。
中禅寺が前へ出る。
「タラヲ君。ワカメちゃん殺害の手口は実に幼稚で、それまでの君らしくない。突発的な犯行だな」
「おじちゃん怖いです――」
幼稚な振る舞い。このまま切り抜ける気か。
270 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:37:49.00 ID:ubq+mD2k0
「中禅寺さん。それまでとはどういう意味です?」
益田が問う。
「君が追っていた事件のことさ」
「へ?――それって」
益田が目を剥いてタラヲを見る。同時に、関口も何かを悟ったかのように目を閉じた。
マスオが俯き、眉間に皺を刻む。眼鏡の弦を伝った汗が卓上に落ちる。
カツオは漸く理解した。
中禅寺の云う貝児、甚六の云う化物の正体は――。
「タラヲ君。家族の貝桶に守られて自分だけ無事でいたつもりか?残念だがそれは大間違いだよ。実に幼稚な勘違いだ」
中禅寺はタラヲに向けて、幼稚の二文字に侮蔑を籠めている。
「正しく幼児の考えだな。君は大人のつもりだったらしいが、体は子供頭脳は大人などと云うのは、どこぞの馬鹿野郎しか居ないんだ」
「僕は――子供じゃないです」
遂にタラヲが中禅寺の挑発に乗った。
274 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:45:21.76 ID:ubq+mD2k0
「僕はコドモじゃないから子供は嫌いです。色気もなしにパンツを見せ歩く小便臭い餓鬼なんて大嫌いです」
僅か臓躁的になってタラヲが云った。
「だからあの日もつい三輪車で殴っちゃったです。一撃であの餓鬼は崩れ落ちて、二打ち目で血を噴いて、三度目には首が捩れ――」
「もうやめてタラちゃん!」
サザエが叫びと共に崩れ落ちた。その肩を三郎が抱き寄せる。
中禅寺はタラヲを哀れむように見て、警官達に云った。
「さあ。彼が――磯野ワカメ殺害犯です。マスオさんは戸籍上の息子である彼を庇うため、義妹殺しの罪を被った」
カツオの頭に疑問が湧いた。
「戸籍上――?実の息子じゃ、ない?」
「カツオ君。君も聞いていた通り、マスオさんは同性愛者だ。異性との性交渉という選択肢はなく、子供など設ける筈もない」
「でも――だったら、誰の子なんですか!」
「母親は君のお姉さん、父親は海平さんだよ」
「え――」
「何故それを!」
海平が狼狽える。
「云ったでしょう。僕はフネさんに全てを語って貰っている」
「そうだったか――」
「タラヲ君はサザエさんが十五のときに産んだ子だ」
「そんな馬鹿な!」
カツオは叫んだ。
276 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:49:31.83 ID:ubq+mD2k0
「カツオ君、君は――何一つ変化しない世間に疑念を抱いたことはなかったか?確実に周辺の時は
動いている筈なのに、自分達は成長も衰えもないと感じたことはなかったか?」
「う――あります」
「その理由が、タラヲ君だよ」
そうですねサザエさんと中禅寺は云った。
「そうですわ。私は十四のときに、海平伯父さんと許されない恋に落ちた。厳格なだけの父と違い、
この人には包み込むような優しさがあった」
「儂もサザエの誘いを受け入れ、一度きりだと云って情を交わしました」
カツオの意志に関わらず、脳内で二人の裸体が像を結ぶ。
――おええ。
「けれど、その一度きりの交わりで私は妊娠しました。全てを知った父は激怒した。それでも私は
産みたいと云ったんです。そうして産まれたのがタラちゃんでした」
待ってくれと老刑事が止める。
「おかしいだろうに。それじゃあタラヲはカツオ君や、ワカメちゃんより年上だということにならんか」
「はい。その通りです」
「その通りってあんた」
「タラちゃんは、三つになったときから、それ以上大きくならなかった。今と同じ姿でずっと生きてきたんです」
老刑事が大きく口を開ける。
「あるんだ、そういうことは――」
関口がぼそりと云った。
279 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:53:39.07 ID:ubq+mD2k0
海平が苦しげに語る。
「波平の奴はタラヲを大層哀れんだ。不義の近親姦で生まれ、成長を止めた因果の子。やがてカツオとワカメが
生まれて、弟は歪んだ考えを持つようになった。この子のために、永劫変わらぬ家庭を保ってやろうと――」
海平が嗚咽を漏らす。
「戦中戦後の混乱に乗じて戸籍を改竄し、タラちゃんはサザエとマスオ君の子になった。そしてカツオ、ワカメや
周辺の人間には、タラちゃんは三歳だ、お前達の甥だと、呪文のように何度も何度も言い聞かせた」
この子達を洗脳したんだと海平は云った。
「そんな単純なことで、僕は騙されてたの?」
「人間の記憶など曖昧なものなんだよ。その気になれば幾らでも捻じ曲げられる」
カツオは沈黙しているタラヲを見た。正体を知った今、異形の幼児が恐ろしくなっていた。
「儂は弟の娘と関係を結んだ負い目があったから、波平の計画に従うよりなかった。タラちゃんは三歳児なんだと――
そう芝居を打ち続けた。偽装のために多くに犠牲を払った。波平が死んだときに入れ替われといったのも、哀れな
タラヲのためを思ってだ。この子が成長できないのだから、儂達だって成長したり、老いたりしてはいかんのだ。
そうしてタラちゃんを守るのが、儂や海平兄さんの責任だろうと、弟はこう云った訳だ」
「しかし貴方達のその行為が、タラヲ君の精神を歪に変容させていった。彼は――見かけの肉体は変わらずとも、
精神や内側の肉体は成長していました」
海平の頭髪が揺れた。
きっと人間が変化するものだということを忘れていたのだ。
カツオもその感覚を久しく忘れていたように思う。
281 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 16:58:57.07 ID:ubq+mD2k0
「成長したタラヲ君の精神にとって、小さな体と変化を許さない家庭は窮屈で仕方がなかった」
「そうか――貝桶の中の稚児―ー貝児は嫁入り道具か。結婚前からなくてはならない――」
関口が自分自身に向けて云う。
「そうだよ。そしてタラヲ君は変わらない世界に押し込められて、成長する方法が分からなかった」
「――わ、私は、ノリスケからタラちゃんの秘密を聞かされました」
サザエの声が震えている。
「タラちゃんが、ノリスケや甚六さん達と一緒に婦女暴行を働いていると」
サザエの告白に甚六が唸った。
カツオは永遠の三歳児の股間を見る。一緒に風呂へ入ったのはいつだったか。親指ほどの大きさではなかったか。
――膨張率が凄いのか。
「うふ、うふふふふ」
タラヲが微笑した。
「――ばれちゃったです。やっぱり口の軽い不細工どもを使うのは失敗だったです」
カツオには甥だと思っていたものがが小さな悪魔に見えた。
「あの時まではずっと一人でやってたです。陵桜も北高も、常盤台中も鴨橋小も、全部ひとりずつ、一対一で可愛がってあげたです」
カツオは慄然とした。
一体何人とヤッてるんだこいつ。チン●が擦り切れそうなものだが。
285 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:04:26.67 ID:ubq+mD2k0
「――でも軽音部はやっぱり五人同時がいいと思ったですよ。だけど僕の体は小さいし、
流石に五人一度に誘拐は出来ないです。だから一人ずつの処女をあげる条件で、不細工三人を雇ったです」
カツオは拳を握った。色んな意味で憎い。
そして、カツオはやっと、親友が犯した罪を悟った。
「最初に顧問の眼鏡豚を抱いてやったら、直ぐに五人の予定を教えてくれたです」
タラヲが悪魔の笑みを浮かべて語る。
対峙する中禅寺は幽鬼の形相で黙っている。
「僕は先ず、仲の良さそうなおでこと巨乳を同時に犯してやったです。どっちも良く鳴いて爽快だったです。
ノリスケ小父さんは僕みたいな喋り方の小娘を選んだです。ペロペロとか云って随分喜んでたです。甚六さんは
頭の緩そうな奴が相手で――そうだったです、カツオ兄ちゃんのお友達は沢庵を相手に――」
「やめろおッ」
怒りが瞬間的に沸騰し、カツオは立ち上がって拳を振り上げた。しかし、
その拳は頭上で探偵に受け止められてしまった。
「殴っても無駄だよ。このコドモは嘘泣きばかりするぞ」
探偵の腕から抜けたタマが、カツオの脚に纏わりついた。
289 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:08:37.25 ID:ubq+mD2k0
タラヲが挑発するように抑揚をつけて云う。
「結局僕は五人全員と遊んだです。やっぱり小柄なほうが締りが良かったですね――カツオ兄ちゃんの
お友達は意気地なしだったです。ヤッた後からうじうじ云って、蛆虫みたいで鬱陶しかったです」
「ふざけるなッ!中島がバットを肉バットに持ち替えたのはタラちゃんの責任じゃないかッ。あいつは
物凄く後悔して、家の屋根から飛び降りたんだぞ!」
違う。自分の所為だ。自分が迂闊なことを云ったから、あいつは屋根に上がって――。
「違うよ」
榎木津が云った。
「へ?」
「肉棒少年は屋根で寝ていたんだ。現実逃避のためにね。其処にほれ、その発情幼児が猫を放ったんだよ」
榎木津がタラヲを睨みつけた。
タラヲの表情が強張る。
「そんなこと――してないです」
「あのなあ。僕に隠し事は出来ないぞ慇懃無礼変態強姦幼児。お前隣家の屋根から猫を放して、野球小僧を
脅かしたな。そして慌てて屋根で滑り、転げ落ちる所を眺めてただろう」
中禅寺が追い討ちをかける。
「馬鹿馬鹿しい。秘密を守りたいなら、口封じなどせずに公園にでも行くべきだったね。その間に
マスオさんがワカメちゃんの処理を終えていただろう」
タラヲが中島の元にタマを放ったのなら、それはワカメを殺した直後ということになる。
293 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:14:17.06 ID:ubq+mD2k0
「甚六さんが暴れた後、君はワカメちゃんを誘導して虚偽の証言をさせたね。そしてマスオさんの
同僚である穴子氏を新たな容疑者に仕立てた」
「そのときは思い浮かんだ顔を云っただけです。パパのお仕事の人だったのは後で思い出したです」
タマが欠伸をして室外へ抜けた。
「――僕は子供だと思われてたから、子供らしく怖がってみせたです。それが失敗だったです。あの餓鬼――
ワカメお姉ちゃんは付け上がったです。怖かったね、可哀想なタラちゃん、もう大丈夫よ――優しい言葉を
僕にかけて姉ぶって悦に入ってたです」
そのとき、タラヲの視界にはワカメの不愉快なパンツがあったのだろう。
「それが、とんでもなく苛々したです。まだ初潮前の餓鬼に情けをかけられるなんて-――丁度さっきの
カツオ兄ちゃんみたいに怒りが抑えられなくなったんです。だから、つい、三輪車で――」
サザエが耳を塞いで慟哭した。海平も苦虫を噛み潰したような顔になっている。
「その現場を、偶然にも僕が見てしまったんです」
マスオが云った。
「大切な妻の産んだ子は同様に愛し、守らなければならない。それが衆道に堕ちた僕の宿命だと信じていました。
三輪車を丁寧に拭いて、タラちゃんの指紋を消した。そして先の証言で嫌疑がかけられていた穴子君を――
彼の愛情と唇の柔らかさと肛門の締まりも、た、タラちゃんを守るためには犠牲にするよりない。
だから彼を殺害して、事件に幕を下ろそうとしました」
これが事件の全貌だったのか。
余りにも糞味噌である。
295 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:18:28.30 ID:ubq+mD2k0
外部から訪れた者達は、一様にタラヲに敵意を向けている。
タラヲは尚も笑っていた。
「僕はまだ三歳ですよ」
ずっと三歳だったんじゃないか――と、憔悴した老刑事が叫んだ。
「全ての事件に僕は関係ないです。証拠なんてないです。パパも甚六さんもハゲもみんな、心神喪失中です」
ハゲて。
「僕は法律の埒外にいるです。これからも可愛いお姉ちゃん達と楽しく遊ぶです。その気になれば調教して
侍らせることだって出来るです。桜高の教師のように――」
中禅寺が接近する。
凶相の男は、タラヲに最後の呪いをかけようとしている。
300 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:25:40.61 ID:ubq+mD2k0
「家族の庇護なしで、今まで通りやれるとでも?」
「そんなものいらないです、寧ろ枷になってたです。僕は人間じゃないです。永久の三歳児――絶倫の魔物です。貝児です!」
「そうか貝児か――それならば矢張り、桶の中の世界に引っ込んでいるべきだ。貝合わせに使うのは貝殻、
つまりは死骸だよ。死んだものは成長しない」
「僕は変わらないです」
タラヲはあくまで稚気を纏って男を見上げる。
「少女達を侍らせて、君は竜宮城の王にでもなりたいのだろうが、それは不可能だ――」
カツオは静かな死闘が繰り広げられているのを感じ取った。
「――タラヲ君、君に竜宮城は築けない。成長を止めた貝の子は、竜王にはなれない」
勝つのはどちらだ。
302 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:29:58.42 ID:ubq+mD2k0
「う、うるさいです!僕はこれから、邪魔なものは全部潰していくことに決めたです」
「無理だよ。物事は起承転結の四コマ――こうして転が訪れた以上、結を迎えなければならない」
勝つのは――。
「それが理解出来ないのは、君が子供である証だ」
「ぼ、ぼくは――うえええぇぇん」
そうして、タラヲは本当に泣いた。
306 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:35:21.78 ID:ubq+mD2k0
突如、ううッと唸ってサザエが昏倒した。
強い力で端を押さえつけられた卓が跳ね上がり、上方のランプを叩き割った。
瞬時にして室内に闇が満ちる。
サザエが畳の上で、腹を押さえて苦しんでいる。
「サザエさん!」
大人達がサザエに駆け寄る。
カツオは――。
必死に、闇からタラヲの姿を見つけ出そうとしていた。
「タラちゃん!」
タラヲは、呆然と母の苦しむ姿を見ていた。
「若奥さ――さ、サザエは!」
三郎が声を張り上げる。
「彼女は身籠っているんです!」
室内に満ちていた何かが、壊れた。
「僕の子だ!」
「わ――私の――赤ちゃん――名前は――ヒトデよ――」
――ヒトデは貝になる。
308 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:41:20.73 ID:ubq+mD2k0
「う、うわああああああッ」
心の中の何かを喪ったタラヲが絶叫し、襖に向かって駆けて行く。
「その子を今逃がしてはいけないッ」
中禅寺の声が響き渡る。
「タラちゃん逃げろおおおおっ」
マスオが絶叫し、卓の脚を持って警官達に投げつける。
混乱に乗じて甚六が拘束を逃れ、老刑事の鳩尾に蹴りを入れた。
「俺も連れて行ってくれよぉお」
跳ね飛ばされてきた老刑事にぶつかり、カツオは窓の桟に後頭部を強かに打ちつけた。
世界が滲み、ぐるぐると回る。
嗚呼、また、渦が――。
鎮めた渦を、再び栄螺が巻き起こした――。
「びゃああああ、びゃ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
狂ったマスオが無茶苦茶に暴れまわる中、警官や探偵がタラヲを追う。
それ程広くもない筈の今が、今や無限の広がりを持った混沌と化していた。
311 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:46:39.10 ID:ubq+mD2k0
「タラちゃん儂に掴まれッ」
タラヲは青木の股を潜り抜けて、海平の背中に飛び乗った。
「逃げるぞ!」
「――いらないです!」
タラオは海平の頭頂部の毛を、小さな手で勢いよく引いた。
「何をする!」
バランスを崩し、海平が揺れる。その衝撃で、髪を握る手に力が加わった。
――ぷつり。
「あ――ぎゃあああああああああああああああ」
頭髪の断末魔。
タラヲが背から飛び降りる。
海平が狂乱し、周囲の小説家と警官、探偵助手を巻き込んで卓上に倒れ込む。
卓は衝撃で真っ二つに割れ、三郎を打ちのめし、窓を粉砕した。
マスオと甚六を相手に格闘する探偵の向こうに、タラヲの背が見える。
カツオは手を伸ばした。
315 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:51:47.22 ID:ubq+mD2k0
アイデンティティーを喪失した禿頭に躓いて、甚六が倒れる。
倒れた甚六を蹴り上げ、探偵から逃れたマスオが中禅寺に激突した。二人が壁にぶつかり、転ぶ。
そして襖の隙から、遂にタラヲが廊下へと抜けた。
タラヲを追う警官達は横たわる者達に足を取られ、そのまま縺れて襖を薙ぎ倒し、倒れた。
カツオは漸く立ち上がり、進行方向を定めた。
「ごめんなさいごめんなさい!」
床を埋め尽くす大人達を踏みつけて、廊下に出て、玄関へ走る。
もう玄関にタラヲの姿は見えない。
半開きになった戸から冷たい風が押し寄せてくる。
カツオは渦に呑まれた磯野家を飛び出した。
靴も履かずに夜の町を駆ける。
興奮は最高潮に達していた。
318 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 17:57:04.23 ID:ubq+mD2k0
「タラちゃん!」
闇を駆け抜けて叫ぶ。
喉が痛い。足が痛い。心臓が破裂しそうなほど拍動している。
高揚感が治まらない。
「タラちゃんどこだーっ!」
闇の中に奇妙な足音。
近くに居る!
「タラ――タラちゃん!」
足音が聞こえなくなった。
其処に居る!
カツオは速度を落とさず角を曲がり、派手に転んで塀にぶつかり、止まった。
口中が血の味で満ちた。擦り剥いた脚が熱い。
雲間から丸い月が現れた。
タラヲは。
322 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:02:32.24 ID:ubq+mD2k0
「タラちゃん――」
月光に照らし出されたタラヲは地に倒れ伏していた。
うつ伏せのタラヲは、壊れた玩具のように痙攣している。
額は縦に大きく裂けて、頭の周りに血溜まりが出来ている。
タラヲは虚ろな目をして、あうあうと喘いだ。
その向こうに。
「磯野」
血塗れのバットを手にして。
「野球、しようぜ――」
満身創痍の中島弘が立っていた。
「な――中島」
中島は恍惚の表情で、嗤った。
「やったよ磯野!悪い奴を倒した!あはははは」
これで許して貰える許されるんだぁと中島は云った。
326 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:09:02.00 ID:ubq+mD2k0
「中島!違う!そんなことしたって誰も、誰も」
カツオの後ろに益田と青木、警官達が駆けつけた。
彼らが立ち止まったのと同時に、その中に紛れ込んでいたタマが躍り出た。
タマは壊れたタラヲに歩み寄り、血に濡れた頬を嘗めた。
ちりん――。
首輪の鈴が鳴ると、中島の顔に恐怖が浮かんだ。
「ね――猫だ。猫だ猫だ猫だ」
カツオ達に背を向けて逃げ出そうとした中島は、落ちていたタラヲの靴に躓いて、倒れた。
中島はそのまま、二度と動かなかった。
月はカツオの親友の最期を見届けて、また雲に隠れた。
――起承転結。
330 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:20:41.56 ID:ubq+mD2k0
13
どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続く坂道を上り詰めたところが、目指す京極堂である。
終わりがあると知っているから、歩くのは苦ではなかった。
カツオの脇には関口と益田が居る。
関口は前に会ったとき同様陰鬱な表情で、益田は何だか分からないが大きな箱を大事そうに抱えて歩いている。
あの夜憑物落としを行った中禅寺という男は、古書肆が本業であるらしい。
懐に仕舞った封筒を握り、男の不機嫌そうな顔を思い出す。
カツオはやや回復した伊佐坂難物に、憑物落としの報酬を届けて欲しいと頼まれていた。
331 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:24:20.18 ID:ubq+mD2k0
少女連続強姦事件。
波野ノリスケ殺害偽装事件。
海山商事変死体投下事件。
伊佐坂家暴行事件。
磯野ワカメ殺害事件。
中島弘転落負傷事件。
穴子さん殺害事件。
あの夜。
渦の中で起きた全ての事件に幕を下ろして、中島は死んだ。
聡明な友人らしくない、無様な死だった。
多大なストレスが原因か、姉の胎内にいた三郎との子は、この世に生まれ出ることなく死んでしまった。
そして、己を失った海平も家で死んでいた。
333 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:28:40.00 ID:ubq+mD2k0
義兄マスオはすっかり狂人と化してしまったらしく、現在は精神鑑定を受けている。
甚六は公務執行妨害で再逮捕され、今度は素直に取り調べに応じているという。
母はいまだ精神を病んでおり、まだまだ病院から出ることは叶わないという話だった。
伊佐坂夫妻も同じく、暫くは入院生活が続くそうだ。
姉は三郎と共に、何処か知り合いの居ない場所へ行くと話していた。
そして――。
多くの事件の元凶となり、病院を抜け出した中島に額を叩き割られたタラヲは、どうやらまだ生きているようなのである。
瀕死のタラヲは病院に搬送され、緊急手術となった。
夜明けまで続いた手術の末に、タラヲは一命を取り留めてしまったらしい。
とある病院のベッドで、今もタラヲは眠っている。負傷して以来、目を覚ましていない。
335 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:32:29.90 ID:ubq+mD2k0
もうずっと眠ったままなのか、それともやがて目覚める日が来るのか、それはカツオには分からない。
もし、いつかタラヲが目を覚ますなら、彼はその日をどう受け止めるのだろう。
過ぎ去った時間や罪を嘆くのか。
復活を喜び、また暗躍するのか。
永遠に不変の自分に絶望するか。
そういえばタマは何処へ行ったのだろう。
タラヲの血を嘗めて、そのまま夜の闇に消えてしまった。
或いは死んだのかも知れない。ずっと磯野家に暮らした老猫だ。
猫は死に際に姿を隠すと聞いたことがある。
帰るべき家の崩壊と同時に生涯を終えることを選んだのだろうか。
337 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:36:39.99 ID:ubq+mD2k0
京極堂主人と細君は快くカツオを迎えてくれた。
軒先ではタマと同じ位の大きさの猫が眠っていた。
益田は机の上に例の箱を置き、その封を解いた。同時に甘い香りが広がった。
「洋菓子です。どうです高価そうでしょう。沢山あるから皆さんで分けて下さい。僕達はもう食べたんで」
「どうしたんだ、これは」
「ほら、この間集まったときにお話した琴吹家の令嬢ですよ」
中島が犯したという少女だ。
「彼女が事務所にいらっしゃって、お礼にと、これを」
「もう出歩いて平気なのかい」
中禅寺が尋ねた。
「気丈な女性ですよ。彼女もひら――失礼、依頼人も。順調に立ち直ろうとしています。お友達にも
琴吹家御用達の名医をつけて、全面的にバックアップするとかで。今月中には皆復学予定だそうです。
中島君のことは――屋根から落ちた怪我で亡くなったと伝えました」
340 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:40:28.96 ID:ubq+mD2k0
「榎さんはどうしてる。琴吹さんとは面識があったのじゃないか」
「おお沢庵が喋っている!とかごきにゃんがどうとかって喜んでましたよ。今度部活に参加するだの云ってました」
「ごき――にゃん、とは何だ」
「何でも大きなゴキブリだそうですが、よく知りません」
「そんなものが部室に巣食っている訳がないだろう。益田君も関口君も分からないのか、失礼な連中だな。部員の一人だよ。さて――」
君はどうするんだと中禅寺が云った。
その言葉が自分に向けられていると気付いて、カツオは口中のプディングを飲み込んだ。
「僕は九州の親戚に引き取られることになりました。来週から向こうの小学校に通います」
昨日、花沢花子にそう告げると、彼女は大いに泣いて結婚の約束を取り付けようとしてきた。
全力でお断りしたのだが。
どこか寂しい思いがした。
でも、今のカツオには別れが必要だった。
別れがあるから次の出会いに価値が生まれる。そう思った。
341 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:44:01.76 ID:ubq+mD2k0
引っ越しちゃうんだと益田が云った。
「まあ仕方ないです――ね。あんなことがあっちゃ」
「これからは変化の中に身を投じる訳か」
「はい。僕、これでいいと思ってます。いつかは渋くてかっこいいおじさんになりたいです」
そう云ってカツオは笑ってみせた。
中禅寺達も一緒になって笑った。
何処かで、家族の笑い声が聞こえた気がした。が、その幻聴はすぐに消えた。
そして本来の用事を思い出す。
「あの、これ」
カツオは封筒を中禅寺に差し出した。
幾ら入っているのかは知らない。厚さから判断するに、それほど高額ではないようだ。
「伊佐坂先生からだね。受け取っておくよ」
342 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:48:24.09 ID:ubq+mD2k0
「それじゃあ僕は、これで。皆さん、ほんとにありがとうございました」
そう云ってカツオは立ち上がった。此処に居ると、何故だか寂しくなる。
益田が引きとめようと顔を上げた。
「えっ?もう少しお菓子食べてゆっくりしていけばいいのに」
「まるで自分の家のような口振りだな」
カツオは三人に一礼し、部屋を出た。
そうそう――と、中禅寺の声がする。
「以前僕らは貝の妖怪について話したが、あれから別の知人と会う機会があってね、面白い話を聞いたよ」
何を云い出すのだろう。
「近頃発見された妖怪絵巻には、波蛇、蟹鬼、汐吹などと共に滅法貝という妖怪が描かれていたそうだ」
「めっぽうかい?」
「大きな二枚貝の妖怪で、尻尾と鰭が付いている。貝殻の上部には人間のような目もある。滅法界は滅法と同義で、
元は因縁の造作によらないものの意だね。甚だしい様の滅法貝に尾鰭が付いて――また別のものに変わろうとしているようだ」
http://up3.viploader.net/ippan/src/vlippan185604.jpg
343 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/02/08(火) 18:53:14.29 ID:ubq+mD2k0
京極堂を出て、カツオは緩い坂を下りる。
宙に浮いたような気分だ。
寂しさと期待と、悔恨と幸福と空虚が綯い交ぜになっている。
「あ――」
坂の上に。
サザエが無邪気な笑顔で立っていた。
「姉さん――」
きっとこれが今生の別れとなるだろう。
これからは二人とも変わってゆくのだ。
貝殻を出て開いた世界へ向かうのだ。
「カツオ!」
姉は笑って、腕を何度か振った。
そうか。これは。
姉の唇が動いた。
じゃん。
けん。
ぽん。
うふふふふ。
渦はもう、すっかり治まったようだ。
(了)