さて、どこから話していいものか…と冒頭より早速思い悩んでいるわけであるが、余りに途
方もない時間遡ってしまっては、なんの変哲も無い一男子高校生のつまらん人生を十余年分も
一体どこの物好きが聞きたいのかと自問自答する結果になることは明らかであるし、そもそも
自分自身そこまで丁寧に自分の記憶を辿れる自信も無い。よって、至極妥当とも言えなくもな
い、「昨日の夜」という時間にまで記憶時計の針を戻してみることにする。
地球の周囲をぐるぐる飽きもせず回っている衛星からこの日本を見たら、ひょっとしてアブ
ラゼミの色に変わってるんじゃないかと我ながらバカな疑問を抱きそうになっていた夏の容態
も、多少なりとも快方へと向かっているようではあり、このところ幅を利かせていたアブラゼ
ミの声も始業式を明日に控えた今日は少しマシになっている。
俺はというと、夏休みに各科目担当から出されたバイキング料理のような宿題を、手をつけ
てはやめ手をつけてはやめを繰り返し、散々食い散らかした挙句、結局完食できたのは1教科
のみという体たらくで、空が俺の心をそのまま投影したかのような黒色になってからは、諦め
の境地を存分に楽しんでいた。
課題のプリントや冊子が入り込んでくる視界の隅を自分の中で勝手に死角化させ、俺は目を
パソコンのディスプレイへ向けた。
もはや、誰もが一度は見たことがあるんじゃないかとまで言える有名巨大匿名掲示板の壷の
画像をクリックし、左の一覧からアニメというジャンルを選ぶ。アニメ板を開くと乱立するス
レッド群の中からいつもの文字を探した。
断じて言うが、俺はそれほどパソコンに精通しているわけでもないし、アニメに心血を注ぐ
毎日を送っていたというわけでもない。その掲示板専用のブラウザというものもあるらしいが、
なんだそれは、というのが俺の導き出した答えでもあり、遠吠えでもある。
ようやくその文字列の中から目当てのものを探し遂せた俺は、躊躇無くいつものようにクリ
ックをした。
『涼宮ハルヒの憂鬱 ********』
たいして気になる書き込みもなく、まあそれは数時間前にも同じものを開いて見ていたから
当然といえば当然でもあるのだが、ぼんやりとどこの誰とも知れぬ人間がした書き込みを目で
追いながら、それはアニメだけで原作では違うよバカ野郎などと心で愚痴をこぼしつつ、同時
に書き込むほどのことでもないなとも考えていた。
そう、俺は「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメが大好きなのである。そんじょそこらのファ
ンよりは詳しく知っているし解説もできるはず、と自負もするが、時には恐ろしい観察眼の持
ち主や、名探偵シャーロック・ホームズも顔負け、いや頭負けか、とにかくそんな形容しかね
る推理力を持ち合わせた猛者もいるのであるからネットの中はおもしろい。
ここはしっかりと力説しておくべきところであるが、高校に入るまでは、アニメなどに一切
興味はなく、それなりの恋愛をし、それなりに勉学に勤しみ、それなりに部活動に励み、それ
なりの趣味を持ちながら、それなりにサボったり頑張ったりの毎日を送る、いわゆるそれなり
に普通の生徒であった。ハンサムかと言われれば不本意ながら誰一人イエスとは答えないが、
かといってブサイクかと言われてもイエスと答える者はいないんじゃあないかと自分では思っ
ていたい容姿を持ち、それなりの親とそれなりの家に住む。そんな、それなりコレクターであ
ったわけだ。
そんな俺が「涼宮ハルヒの憂鬱」という原作及びアニメに出会い、なんとも一瞬にして陥落
してしまった。毎日ハルヒ関連の活字や画像を追い求め、行き詰ると何度と無く見返したアニ
メを流し、同じところでぽかーんと口を開けるようなそんな人間、ネット上で「ハルヒ厨」と
呼ばれる人間に変わるのに多くの時間は要さなかった。
こうやってモノローグ調で語っているのも、言わずもがな、ハルヒの主人公キョンの模倣で
あることは出だしからほぼ全ての人に気付かれていることであり、わざわざ解説も不要なので
この際割愛させて頂こう。
さて、前口上はこのくらいにして、いくら惰眠と惰食を貪るだけの日々であった夏休みが今
日で最後とはいえ、そろそろ眠りに就かなければならない。チラリと「涼宮ハルヒの憂鬱」の
ハルヒ、みくる、長門をはじめとする出演キャラクターのフィギュア達に目をやった後に目を
閉じ、何度か寝返りをうっているうちに、俺の意識はゆっくりと眠りに支配されていった。
翌朝、幸か不幸かきっちりと始業式開始に間に合う時間に俺の瞼は開門し、暑さと気だるさ
と気の重さという三大諸症状が発症した重患者の俺は、のらりくらりと学校へと向かった。学
校へと向かう道、何人かの友人が声を掛けてはきたものの、俺は生返事でそれに応じ、つまら
なさを感じたであろうそいつは別のターゲットを探し追い抜いていった。
もう九月なんだからせめてこの暑ささえなんとかしてはくれないか、太陽様よ。
夏休みの間、どっぷりとハルヒに浸りきった俺は、傍若無人のSOS団団長涼宮ハルヒはも
ちろんのこと、未来人の部室専用メイド朝比奈さんも、無口無機質無感情の対有機生命体コン
タクト用ヒューマノイド・インターフェース長門も、常に微笑の超能力者古泉でさえもいるは
ずのない自分の学校に強い虚脱感を覚えていた。せめてもの抵抗が、心の中で呟くこのキョン
風のモノローグなのである。つまらん学校だ。実にツマラン。
寝てたことを棚に上げて言わせて頂くが、何を言っていたのかまったく意味の分からん校長
の話も終わり、気がつけばHRの時間となっていた。
この時点から俺の時間、空間は少し…いや、少しどころではないな、変わり始めていたのか
もしれん。
担任の教師が、聞きなれた何の面白みも無い級友たちの名前を、夏休み明けだからか変に高
いテンションかつ大音声で呼ぶという出欠確認が終わる頃には、俺はうとうとと机に突っ伏し
かけていた。
ここのところ、一日の平均睡眠時間が異常に長かったせいだが、これは責めないでくれ。
誰しも夏休みといえばそういうもんじゃないのか、悪いが少なくとも俺はそうだ。
俺が完全な眠りに落ちようと、ウサギとカメのウサギのようなしたり顔になっていると、教
室内の大きなどよめきが俺の耳に緊急入電された。周りを見ると、何やら前後左右の者同士が
ああでもない、こうでもないと盛り上がっている。
「何だ」
最後列から3列目という、ファーストクラスまで行かずとも、ビジネスクラスくらいの価値
はあるであろう席に位置する俺は、前の生徒にそう聞いた。
「何かあったのか」
そいつは俺の顔と教壇を忙しく行き来させながら、昆虫採集中にヘラクレスオオカブトを捕
まえてしまった小学生のような期待と驚きの笑顔で、
「転校生だって」
なんだって? 転校生? この学校にも転校生なんてものがあるのか? 聞いたことがない。
なにやら教壇上では担任の教師が最前列の生徒の質問に苦笑しながら受け答えをしている。
教室中が転校生登場の話題で盛り上がっている中、俺は一人変なことを考えていた。
そう、ハルヒで転校生といえば古泉。「皆さん、本日転校してまいりました古泉と申します。
何分、慣れぬ土地でいろいろとご迷惑をおかけすることも多いかとは存じますが、一つ宜しく
お願い致します」などと微笑みながら自己紹介する転校生を想像し、一人愉快な気分に浸って
いた。ああ、否定はしない。確かに救いようがないかもしれないな。
「おお。女だって!」
と、盛り上がる前席及びその周辺の声に、古泉出現という俺の叶うはずのない淡い願望は、
早くも叶うはずもない事が露呈し、俺はガッカリと肩を落としていた。
そりゃそうだ。そんなラノベやアニメのような展開がそうそうあるはずもない。
女子生徒が転校してくると聞き、淡い期待を抱いていないといえば俺は嘘をついた挙句泥棒
になるのがオチだから正直に告白すると、そりゃあ少しは期待なんてものを抱きもした。
だが、その数秒後に転校生がとびきりの美人で自分とどうこう…なんてのはフィクションの
中の演出でしかありえないと思い直し、再び机の引力へと引き寄せられていった。
そんな俺の睡魔が、本日早くも二度目の撤退を余儀なくされたのは、なんと担任教師の言葉
が原因であった。
「はい、入ってきなさい。転校生の涼宮ハルヒさんです」
なんですと?
この担任はこともあろうに、なんというボケをかますんだ? 俺を含めた特定の人にしか分
からないであろうアニメのキャラクターを、よりにもよって転校生紹介のボケへと引用してき
やがった。いったい、そのボケでどれほどの笑いが取れるというのか。大丈夫か、おまえ。
案の定、クラス内は誰一人としてくすりともしていない。なんとも痛々しい限りである。そ
んなくだらないボケをするなら、例えば教室の…と、俺が心の中ツッコミ劇場を開演させてい
ると、カラリと開いた教室前側の扉から一人の女子生徒が入ってきた。
教室内にポツリポツリと沸き起こる拍手。そいつはつかつかと命じられてもいないのに教壇
に歩を進めると、黄色いカチューシャに付いたこれまた黄色いリボンをひらりと翻しながら、
偉そうに腕を組み、教室全体を睥睨した。
二拍ほど間が空き、担任の教師が、
「それでは涼宮さん、簡単でいいですから、なにか、」
と、言いかけたの言葉に被せるようにしてこう言い放った。
「転校生、涼宮ハルヒ」
言っちまいやがった。本気でおかしいやつが来てしまった。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、
あたしのところに来なさい。以上」
これってギャグなの?
俺の中では「涼宮ハルヒの憂鬱」原作者谷川流氏の原文がそのまま流れていた。
もちろん、別の意味で。「ここ、笑うとこ?」
どうなってやがる、暑さで脳炎でも起こしているなら、転校初日とはいえ仕方あるまい、早
退届を提出し病院に行け。お前なら間違いなく許可が出る。このあたりの地理に詳しくないの
なら、俺が良い病院を紹介してやろうじゃないか。
ところが、周りの反応はもっとおかしかった。「カワイイ!」だの「俺、今日告白する」だ
の「今何て言ったの?」だの、普通すぎる。アニメのコスプレして、アニメのセリフを言った
気の違った野郎だぞ? まぁ女だがこんなやつは野郎で十分だ。ハルヒってそこまで無名だっ
たか? いくら万人向けではないとはいえ、それこそアニメはそこそこ有名なはずであり、約
30人だか40人いるクラスの中で、ポカーンと口を開けて哀れみの目をしているのが俺だけ
だというのはどういったことなんだ、え?
それよりも問題は、だ。
こいつの容姿である。
長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔は
この上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、淡
桃色の唇を固く引き結んだ女。
えらい美人なのである。
はっきりとここに明言しておくが、いまだかつて校内や通学途中はもちろん、芸能界でさえ、
ここまでの美人は見たことがない。
この言葉は言いたくないが、まさしくハルヒそのもの。アニメから飛び出てきたそのままの
容姿なのである。うん、ここまでの素材ならコスプレしたくなるのも頷ける。
自称ハルヒはそれだけ言い終わると、喧嘩でも売るような目つきで教室中を見渡し、大股で
教室の後ろから2列目、つまりは俺の真後ろの席に大股で歩み寄ると、大口開けて見上げてい
る俺をじろりと睨み、にこりともせず着席した。
どうでもいいけど、その席はただの欠席だぞ?
担任教師は、転校生のために予め空けておいた最前列の空席を指差し誘導しようとしたが、
優しさからか、諦めからか、呆れからかは定かでないが苦笑いとともに指を引っ込めた。
転校初日にアニメのコスプレで登校とは、とうとうアブラゼミは人間の脳細胞を食って成長
する習性を持つにまで進化してしまい、不幸にもその超最先端アブラゼミ君の餌食になってし
まったのが彼女なのではないかとホラーじみた心配までしてしまうが、まだうちの高校の制服
をきちんと着ていることは救いか。
結果から言うと、こいつのコスプレはギャグでも笑いどころでもなかった。涼宮ハルヒは、
いつだろうが、どこだろうが冗談などは言わない。
常に大マジなのだ。
のちに身をもってそのことを知った俺が言うんだから間違いはない。
沈黙の妖精が三十秒ほど教室を飛び回り、やがて担任教師が新学期当面のスケジュールの説
明をはじめて、白くなっていた空気はようやく正常化した。
こうして俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。コスプレだと信じたい、と。
やたらと後ろの席が気になるHRも、ようやく担任教師の掃除当番確認の言葉で終わりを迎
え、俺はその後ろの席とやらに本来座っていた男子生徒と似ても似つかぬ、というより性別か
らして違うわけであるが、を意識しつつ、目指すべき生徒の元へと向かった。
その生徒は、桂木というのだが、恐らくここ以外でもう二度と名前を出すことも無いだろう
から、忘れてもらって結構、まったくもって問題ない。
桂木は自他共に認めるアニメ大好き人間である。悔しいことに恐らく俺がこいつにアニメハ
ルヒについて話題を持ちかけたところで、まともな議論など成立することもなく、こいつのア
ニメ知識のダムを決壊させるだけであり、その決壊によって溢れ出てくるハイレベルな話を嬉
々とした眼差しを眼鏡の向こうに感じながら延々聞かされるのがオチであるから、今まで敬遠
させて頂いていた。
あらためて考えると、こいつの名前を口にして呼ぶのは初めてなんじゃないだろうかと、ど
うでもいい俺の脳内発信履歴を確認しながら、話しかける。
「はい? なんですかね」
なんなんだよ、いきなりその口調か、というツッコミはそのままキレイに喉の奥にしまって
おくことにし、俺は聞いてみた。
「転校生さ、コスプレはいいとして、名前までなりきってるな」
しばらくこちらに視線を向けて不思議そうにパチパチと瞬きしていたかと思うと、一言、
「……は?」
何が、は? だ。
今俺が話したことを聞いていたのか? まったく。
頭の中で何かしらのアニメOPソングとかをヘビーローテーションで流していたんじゃない
だろうな。ハナから会話がキャッチボールでなく、ロケット花火のようにピューと音を上げて
明後日どころか冬あたりまで飛んでいき、そのままになっているのだが。
しかし、残念な事に俺はこいつの他に確信を持って「ハルヒを知っている」と思える人間が
思いつかん。
「ハルヒだよ、ハルヒ。涼宮ハルヒの憂鬱。あいつのあれ、そのコスプレだろ」
もうまどろっこしくて仕方ないので言うが、結局桂木は数秒目を泳がせたあと、「ごめん、
僕ちょっと分からない」とだけ言って教室を出て行った。マジか。ハルヒを知らんとは。
桂木の席に取り残された俺が、本名も明かさぬ無礼転校生自称涼宮ハルヒ(ふざけるな)に
目をやると「どこから来たの?」だとか「部活するの?」だとかいう女子たちの質問攻めにあ
っていた。
本名も明かさぬ無礼転校生(略)は、その質問に悉く沈黙で応戦し、腕を組んであらぬ方を
睨み、視線さえ返していないぞ。おいおい。
おまえなぁ、少なくともこのクラスはハルヒを知らない普通の高校生が大半だと推測するぞ。
なりきるのもいいが、あまりにやりすぎると本当にそういう人間なのかと勘違いされるんじゃ
ないか? いや、もう既に女子生徒は眉を顰めひそひそと話をし始めている。まったくご愁傷
様だ。
休み明け初日の長い、といっても昼までだが、任務を全うした俺は、帰宅するとパソコンの
電源を入れた。
パソコンから排熱ファンが回転する音が聞こえ、小人がタップするようなカカカという音が
収まると、俺は飽きもせずに例の有名巨大匿名掲示板を開いた。
ははは、そうだ。今日の出来事を書き込みしてやろうと意気込んだわけだ。
一切触れられないか、笑われるか、嘘だ釣りだと叩かれるか、それは分からんが、まあ誰か
とこの珍事件を共有したかったのだろう、俺自身にもよく分からん。気の迷いだ。
しかし、いつものスレが見当たらない。どうなってやがる、落ちるはずもないんだがな。ス
レッド一覧を数回リロードし検索したが、いつものスレどころか「ハルヒ」という言葉にすら
ひっかからない。
めんどくさいことをするのは俺の性分じゃないし、かといって見てる限りでは立つ気配さえ
ない。
ええい、こうなったら気の迷いついでに立ててやるか。
適当なスレッドタイトルを考え、コメントとして今日の出来事を文章としてまとめあげる。
俺にタイプされたキーボードは健気にも一切逆らうことなく、無事に無難な文章を画面に完成
させた。やればできるじゃないか俺。よし、これなら誰が読んでもこの珍事件の珍っぷりが分
かるだろうよ。
思い当たって、最後にこう付け加える。
『ハルヒ関連スレ、全部消えてるな?』
一階へ降り、ジュースを冷蔵庫から出し、すぐに二階へと舞い戻る。階段を元気よく駆け上
ったというのに、部屋に入るとジュースのペットボトルはもう大きな汗を浮かべていた。
さて、どんなレスがついているもんでしょうかね。
『糞スレ立てんな』
『意味不明。病院池』
『脳内アニメ乙』
『ハルヒって何?』
『お前楽しい?』
『悩みなくていいな』
『いったいどんなアニメかとググってしまったw』
『釣れますか?』
う。
なにかがおかしい。
もしかして、俺が学校でくだらん脳内ツッコミを入れている間に何かあったのか? 慌てて
ハルヒの公式サイトを開く。
『ページを表示できません』
消えてる?
それから一時間に渡り、思いつく限りの手で「ハルヒ」の名前をネット上から発見しようと
試みた。通販サイト、オークションサイト、ブログ、同人、ない、ない、ないじゃないか。
今までハルヒ関連の記事ばかり書いていたブログに至っては、丸ごと内容が書き換わってし
まっている。ちょっと待て、どういうことだ。何があった? そりゃたかがアニメだ。しかし、
このインターネットからたった一晩で全ての関連ページを消し去るなんて芸当がどのマジシャ
ンなら可能だ? 俺が小学生以来ひそかに貯めてきた500円玉貯金の全て、不足ならさらに
将来貯めるであろう分まで賭けてもいい。そいつは世界一のマジシャンに相違ない。
ただ、自室のしょぼくれた棚にはハルヒのDVDとフィギュアが並んでいる。ひょっとして
恐ろしい高値になったりするんじゃないだろうか、と下心剥き出しの視線をやると、その下心
をいち早く察知してベッドの下にでも隠れたのか? 棚には何一つ物が無く、もう棚とも言い
がたいその元・棚の箱は実に寂しそうに部屋の隅に鎮座していた。
フィギュアが歩くなんてギミック、聞いたこともないぞ。
頭が痛くなってきた。
俺のクラスに転校生がやってきた。
その日、いったいどういうわけか、この世から「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品が消えた。
転校生の名前は涼宮ハルヒ。…というらしい。
おい、どこまででたらめになってるんだ、この世界は。
いじめられっこのスズメちゃんが、わーんと泣いた時にポロリと零れ落ちた涙程度しかない
俺の情報収集能力ではあるが、昨日は自分なりにそれなりのことを試みたつもりである。さす
が、それなりコレクターの俺、とまあこんな自賛でも自嘲でもない中途半端な前置きはどうで
もいい話ではあるのだが、とにかく、昨日あれから俺はいろんなことを試してみた。
原作本を近所の書店に探しに行ったし、それが一冊も本棚に並んでいないことを確認すると、
どこぞのコンビニレジに設置された募金箱の中身より侘しい俺の予算を捻出し、同出版社の異
なる著者、タイトルのラノベを一冊購入した。
ベッドに寝転がり、その柔らかさに睡眠欲を無理やり押し付けられそうにもなりながら、俺
はページを繰って巻末の発行所、発売元の項に注視する。そこに表記されていた電話番号に哀
願の思いを込めSOS信号を(SOS団とひっかけたわけでは断じてない)発信したつもりで
あったが、どうやら発行元救助隊は俺がキャンプやバーベキューで騒いでいるだけのいたずら
小僧と勘違いしたらしいな。「誠に申し訳ございませんが、お客様の仰る作名の出版物は私ど
もの方からは発行されておりません」と残し、無情にも救助専用回線は切断された。
さあ、どうしたものかね、この状況は。
…などと昨日の自分ドキュメンタリーの録画ビデオをぼんやり頭の中で再生してみても、何
ら現状を説明する明確な解答やヒントにもならんばかりでなく、より頭を掻き毟る結果になる
だけであった。
新学期二日目の朝からそんな鬱々とした思考を巡らせていても、この少しどうこうなりかけ
ている現実は一限開始までの時間を刻一刻と、そんなところだけは現実的に進めていた。
もうこうなったら自称消えたアニメヒロイン無礼転校生(略)の張本人に聞いてみるのが一
番手っ取り早いだろう。
だってよ、自分が大好きだったアニメのヒロインそのままのやつが転校してきたんだぜ。た
またま席がそのアニメの主人公と同じ場所、要するに真ん前だという地の利を生かして、その
席はそいつが勝手に選んだわけではあるのだが、とにかく天然閉鎖空間閉じこもり野郎だろう
が、若気の至り体現野郎だろうが、全身全霊全力サイコ野郎だろうがそんなことは関係ない、
お近づきになっとくのもいいかなと一瞬血迷った俺を誰が責められよう。
もちろん話題はあのことしかあるまい。
「なあ」
と、俺はさりげなく振り返りながらさりげない笑みを満面に浮かべて言った。
「しょっぱなの自己紹介のアレ、誰か気付いてくれたやついたか?」
腕組みをして口をへの字に結んでいた変人転校生はそのままの姿勢でまともに俺の目を凝視
した。
「自己紹介のアレって何」
くぅ、不覚であった。俺としたことが純粋に質問をしたつもりでいながら、こいつのなりき
りを援助してしまうような発言になってしまっている。原作やアニメそのままのセリフで返答
してこれるような質問をすべきではなかった。
しかしこいつの声はそのままアニメのハルヒである。ブラックジャックが諸手を着いて弟子
入りを懇願するような名医が声帯手術を施したところで、そこまで似た声にもならんだろう。
ってことは、ナチュラルボーンソックリさんか?
「いや、だから宇宙人がどうとか、アレって、その、要するに、」
「要するに何」
あれ? 原作とは違う反応じゃないか。まあいい。
「要するにアニ…いや、モノマネの、」
このアブナイ野郎にとって、モノマネだとかいう単語は禁句であったのか、しばし俺に向け
ていた大きな瞳をすっと細めると、小泉八雲の描く雪女のような冷徹な視線に僅かな戸惑いの
色を漂わせながら、つんと尖った唇でこう吐き捨てた。
「どういうこと」
「…いや、何もない」
「だったら話しかけないで。時間の無駄だから」
とまあ、おそらくファースト・コンタクトとしては最悪の部類に入る上、原作に似てないと
も言い切れない短い会話を終え、さすがに俺もこいつには関わらないほうがいいのではないか
と思い始めてその思いが覆らないまま一週間が経過した。
いや、前言を撤回しなければならん。俺は何がどうあっても、こいつと関わっていく必要が
あったんだ。
そんな会話から一週間のあいだ、俺は教室の主だと言わんばかりの表情で常にどこか違う方
向を睨んでいる横柄かつ常時しかめっ面の現・後ろの席の住人に関して調べてみた。
それにしても、何の恨みがあっておまえはそんなに空気を睨みつけてやがるんだ? そのせ
いでびびりまくった空気たちも冷たく縮み上がってしまっているじゃないか。酸素を頂いてい
るんだから、そう恨事の最中のような目で喧嘩を売ってやることもないだろうに。
結果、俺が知り得た情報は愕然とするものだった。
一、涼宮ハルヒと名乗る女子転校生の本名は、間違いなく涼宮ハルヒだった。
一、後ろの席の元住人は、転校したのか何なのか、とにかく既に在籍していなかった。
一、誰一人「涼宮ハルヒの憂鬱」なんて原作及びアニメを知る者はいなかった。
こんな話を誰かにしたら、アニメ自体俺の妄想だったんじゃないかとか、記憶違いであると
か、精神に異常をきたしているとか、はたまた今起こっているこの状況が妄想以外の何物でも
ないとか、とにかくそんな声が向けられるのが関の山だろうな。俺だって数日前ならそんな事
を言ってる残念なやつを見かけたらお悔やみ申し上げていたはずだ。
俺もバカじゃあないし、いくら俺の記録上夏休み丸ごとアニメに浸っていたからといって、
妄想と現実の区別をつけている自信と確信がある。
俺の脳裏で今も動き回っているアニメーションや風景は俺が勝手に創り上げた偽りの記憶な
どでは決してなく、俺の後ろの席にいる女が冷徹でアニメヒロインそっくりな事も、これまた
寂しいことながら現実だ。…たぶん。
どうやら、溜息の出ることにこの世には原作本がただの一冊も残ってないらしいから記憶を
辿ることにするが、確か物語の中で古泉がこんなことを言っていた。「我々人類がそれまでの
記憶を持ち、ある日突然この世に生まれてきたのではないとどうして分かるのか。五分前に全
宇宙がこの形で誕生したことを否定することは不可能だ」とか、とにかくそういった内容だ。
バートランド・ラッセルの世界五分前仮説じゃあないが、もしかしたら俺の記憶も誰かによ
って造られたものなのか? なんてことを考え始めると薄ら寒くなり、こんな残暑厳しい一日
だというのに鳥肌がたってくるチキン野郎な俺である。
ある日、俺は相も変わらず機嫌の悪そうな涼宮ハルヒを見て原作との大きな違いがあること
にようやく気がついた。転校してきてから毎日のようにこいつの膨れっ面を否応なく見せられ
てきた俺だが、もっと早く気付けと責めるやつがいたら俺の立場になって頂くことを心よりお
願いする。
毎日髪型が同じなのだ。
腰の辺りまで伸びた長く真っ直ぐな黒髪はアニメの登場時のそれではあるのだが、曜日によ
って結ぶ箇所が増えるという現象は起こっていない。どうして早く気付かなかったんだ、俺は。
物語の中の物語のキャラであるキョンが羨ましくなってきた。こんな複雑でややこしい設定
の俺は、この涼宮ハルヒになんて声をかければいい? 全てを打ち明けて話でもするか? そ
れとも知らぬ存ぜぬでキョンの真似事でもしてみるか?
考えることを放棄したのか、自分でも未だにこの時の心境をうまく説明できん。しかし、ア
ニメから出てきたのか、俺がアニメになったのかは置いておき、とにかく俺はその日から涼宮
ハルヒと本格的に接触してみようと決意した。
「曜日によって髪型を変えてみようとは思わないのか?」
席に着きながら、出来る限りのさりげなさを装った俺の一言に、いっぱいいっぱいの時間を
かけ、怪しい血痕を見つけた老刑事のような目つきで俺を観察した後、
「…あんた、何者?」
やっと涼宮ハルヒは俺の方へ顔の向きを変えて話した。
「何者って、その質問にはどう答えれりゃいい」
「あんたが何者かって聞いてるの。髪型って何」
涼宮ハルヒは具体的な質問に言い換えてやったんだとでも言うように得々としてまったく同
じ質問をよこしやがった。
「見た通り、ごくありふれた男子高校生だ」
「髪型と曜日がどうつながるの」
だめだ。饒舌でない俺という人間は、どうも聞き役に徹するほうが無難なようだ。
「なんとなく言ってみただけだ」
「あっそう」
涼宮ハルヒはふんと息を漏らすと、よく観察していないと分からないほど僅かに肩を落とし、
また俺から顔を背けて頬杖をついた。恐らくこれは会話終了の合図なんだろうな。こいつがも
し本当のハルヒなんだとしたら、キョンってのは相当特異なコミュニケーション能力の持ち主
だったのかもしれん。
俺は決心した初日で既に挫折しかけてるよ。どんな楽しい話題を徹夜でA4ノート一冊分用
意したとしても、三分以上会話を続けさせる自信がまったくない。
本年度の最重要案件であると今日の午前中に決定された涼宮ハルヒ本格的接触計画であった
が、挑戦者モスキート級の少年ボクサーが世界ヘビー級チャンピオンの入場シーンでもはや泣
き顔になっているがごとく、戦意喪失。同日の午後には保留案件へと徹底的な格下げがなされ
ていた。
そりゃまあ確かに誰もが認める美人だ。それに仲良くなればきっと楽しいやつなんだろう。
それは俺も知っている。いや、まあ本物だとしたらってことで言っているんだがね。しかし無
理だぞ、あれは。仲良くなるなんてことより、同レベルの美人を他に探すほうがまだ簡単そう
だ。
なんの進展もないまま、俺は一人でいつものように帰路につく。
今から数十分後にさらに奇妙なことに巻き込まれている事をこの時の俺があらかじめ知り得
ていたら、帰宅時間が深夜になったとて回り道をしていたね。…と、キョンっぽく言ってはみ
たが、正直ワカラン。事前に知っていたとしたらどうするんだろうね、俺は。
駅舎が見えてきたので、さっきから左手をごそごそと定期券の探索にあてているのだが、鞄
に突っ込まれた索敵係の左手は、未だにそれらしい手触りを見つけられない。仕方なしに立ち
止まって鞄を開きローラー作戦へと移行させてみたものの、やはり無い。どこをどう探しても
無い。
パタパタと制服の上からポケットの感触を確かめてみたが、そんなところにも当然あるはず
がない。何故かと言うと、至極簡単そんなことろに入れたことなどないからである。入れたこ
ともないのにあるはずもない。というか、あってたまるか。でも、あってくれてもいいじゃな
いか。家にさえまともに帰ることが出来ないようになったのか、などと愚痴を言うのも面倒く
さくなってきた。
もしかしたら机の中に忘れてきたかな。それなら明日登校したときにでも回収するかねと、
きっと違うであろう自分への楽観的応急的逃避的仮説を打ちたて、切符を買い求めるべく路線
図の前で手の平に乗せた小銭をジャラジャラやっていると、
ト、ト。
何か小さな豆でも落ちてきたかのような僅かな振動を肩が感じ取った。誇張表現では決して
ない。事実俺は、水滴でも落ちてきたのか? このボロ駅舎め、と上を見上げたほどだ。
そこでようやく斜め後方に小さな影が立っていることに気付いた。
振り返ると、そこには──うーん、もうこれは困惑でも混乱でもない。喜劇だ、喜劇。実に
愉快。喜劇なんだから笑ってしまえ、わっはっは──長門有希が立っていた。
色素の薄い髪の毛はアニメで見るよりも少し茶系の色が混じっているような気がするが、光
の加減かもしれない。だが雰囲気としてはアニメ通りだ。大きな艶消しブラックの瞳は…キョ
ンのやつめ、巧い表現をしたな…真っ直ぐ俺を捉えていて、静止画のように無表情だ。微妙な
位置で人差し指一本俄かに立てて「1」とやってるのは、きっとデジタル信号の0と1で構成
された何かしらのシグナル、とかではまったくなく、それは俺をつついた指だろう。
何一つとして言葉をうまく紡ぎ出す事が出来ず、たっぷり十秒ほど見つめあってから、ごく
りと大きな生唾を嚥下するのが精一杯だった。今後こんな事がまた起こったときのために、ど
うすればいいか考えておかないといかんな。って、こんな事チンチンジャラジャラ二度も三度
も起こってたまるか。
「あ……はい?」
ああ。自分でも最後に声が裏返ったことを確認した。
「…ついてきて」
それだけ言うと、短い髪をふわっと靡かせて踵を返し、長門は駅の外へと向かい歩き出した。
一度も振り返ることなく、てくてくと歩いていく長門の後を慌てて追う。
ちょ、ちょっと待ってくれよ。これはどういうことだ? ハルヒかと思ったら次は長門?
ついて行った先で「大成功!☆」なんて書かれた看板抱えたおっちゃんがヒョイヒョイ出てく
るとかじゃなくってか? いや、おっちゃんじゃなくてお兄さん? 俺ならお姉さんがいいね。
って、そうじゃねーだろ、俺。いかん、考えがまとまらん以前に何をまとめるのかも分からん。
一回落ち着け。落ち着いて考えろ。考える事って大事なんじゃあないか? だよな。なんせ人
間は考える葦であるなんて名言まであるくらいだ。昔の人はうまく言ったモンだ。小さい頃、
人間は考える足だなんて勘違いをして、へぇ、足のツボってこう、思考力が良くなんのかぁそ
りゃいいことを聞いたなって具合に無駄に足裏グイグイ押していたのも今は良い思い出であり、
小さい頃ってのはそんな感じで何でもかんでも信じ込むような純粋なところがあっ…
どこへ向かっている。
…のジイさんが鬼灯をサクランボと間違えて食った時には笑ったね。なんというか、小さい
頃ってのは何もかもが新鮮だったな。それが今じゃ…ああ、いかん、脱線した。で、俺はどう
すりゃいいんだ? 知らない人にこんなにホイホイついて行ってだな、いや、知らない人では
ないというか見知ってはいるのだが向こうはこっちを知るはずもないわけであるし、そう言え
ば俺のジイさんは知らない人について行くんじゃねえって毎日言ってたな。高校生にもなって
幼児のときに聞いた注意をそのまま忠実に守るというのも極端過ぎるってのも俺は十…
まだか、おい。
…そんな厳格なジイさんが、ある日鬼灯をサクランボと間違えて食った時には腹抱えて笑っ
たね。鬼灯とサクランボのどこが似てるんだ、ってこれはもう話したか。とにかく、そんな考
える猶予も与えずすたこら歩かれては心の準備以前問題でだな…
「ここ」
「…は?」
一言も会話を交わさずに、長門(と、俺はもう断定した)が案内したのは、ちょっと奥さん
英会話学習セット買ってくださいよ英会話。おっと。私の足をドアに挟んでもらっちゃあ困り
ますよ? 万一打撲でもしたら治療費が高くつくんじゃあないんですかねぇ。へへへ。なんて
いうタチの悪い訪問サービスの面々も多少は臆面を覗かせるであろうという高級そうなマンシ
ョンだった。
しかし、これもまたアニメで長門が暮らしていたものとは違う。
玄関口のロックをテンキーのパスワードで解除してガラス戸を開け、エレベータへと向かう。
エレベータの中で長門は何を考えているのか解らない顔で一言も発せず、ただ数字盤を凝視し
ている。七階着。
「あのさ、どこに行こうとしてるんだ?」
俺だってバカじゃない。なんとなくは分かってるさ。でも、せめて今そう聞いておかないと
あまりに不自然じゃないか。マンションのドアが立ち並ぶ通路をすたすた歩きながら長門は、
「わたしたちの家」
俺の足が止まる。ちょっと待て、俺の思い描いていた答えと若干違ってるぞ。たち?
「中にいるから」
ますますちょっと待て。それはいったいどういう意味であるのか。
708号室のドアを開けて、長門はじいいっと俺を見た。
「入って」
マジかよ。
うろたえつつも狼狽を顔に出さないようにして、恐る恐る上がらせていただく。靴を脱ぎ一
歩進んだところでドアが閉められる。
何か取り返しのつかない所に来てしまったような気がした。その音に不吉な予感を感じて振
り返る俺に、長門は、
「中へ」
とだけ言って自分の靴を足の一振りで脱ぎ捨てた。これで室内が真っ暗だったら何を置いて
も逃げ出すつもりだったが、煌々たる明かりが広々とした部屋にいる古泉を照らしていた。
ん? 古泉?
俺の判断力と記憶力もここ数日で随分と低下したが、古泉はまだ登場していなかったと記憶
している。
「やあ、どうも。突然お呼び出てして申し訳ございません」
古泉は滑らかに立ち上がり丁寧に一礼、男の俺が惚れ惚れするほど爽やかな微笑でおもてを
あげた。
もう何も驚かない。恐らく、そういうことなのであろう。俺はてっきりアニメからキャラク
ターが抜け出てきたものだとばかり思っていたが、その正反対、俺がアニメの中に迷い込んだ
か、さもなくば俺の脳みそに悪い虫が迷い込んだかのどちらかだ。後者の可能性が赤丸急上昇
中であり、今なら買いだぞ。
それならこの不条理な世界を心行くまで楽しんでやろう。それが妄想への礼儀というもんだ
ろ。そう思うとやけにすっきりした。
微笑を崩さず長門をちらりと見やった古泉は、
「長門さん。ご苦労様でしたね。こちらの方がパイプ、なんですね」
長門がこくりと小さく頷くのを確認し向き直ると、
「はじめまして、古泉と申します。ああ、あなたはご存知でしたね」
握手を求めるように右手を出すのでそれに応じる。生きている人間の手、を感じた。本当に
アニメの中か、これは。
「恐らく戸惑っておられるでしょうから、説明させていただきます」
物語の中の理論派と実力派二人と出会えたことに、俺は驚きより安心感を覚えていた。彼ら
が力になってくれるならどうにかなるかもしれない、と。
俺は菓子でもつまみながらドラマを観ている視聴者のような心境なので、どうしたいのかも
分からんし、そもそも何がどうなってるのかも分からん。ただただアニメを見てただけのはず
が、その中のキャラクターと会いひょんな事に会話することになっているだけだ。
「柔軟な想像力を持ってお聞き下さい」と念を押し、相変わらずの笑みを湛えたまま古泉は話
し始めた。
「そうですね、どこから話しましょうか。まずはこちらの世界の事からお話しましょう。○○
さん(俺の名前だ)は、涼宮さん…涼宮ハルヒさんをご存知ですよね」
「ああ、知ってる」
「ええ、そのはずです。もう出会っておられるでしょうから」
長門は俺や古泉のようにソファに座ろうとはせず床の上で正座していた。何もかも解ってい
るかのように話す男と、何もかも解っていない男のちょうど中間あたりの中空を無言で見てい
る。
「だいたいのこちらの世界の出来事は、長門さんが伝えてくれた通りです」
ちょっと待て。俺はまだ何も聞いてないぞ。
「伝える、という行為を可能にするのは何も言葉だけではありません。長門さんが取った方法
は情報群を実体の無い形へと変化させ飛ばす、という方法です。俗に言うテレパシーのような
ものに近いのではと私は踏んでいます。それには情報統合思念体の協力が不可欠であった、と
のことですが、残念ながらそれは私にも完全に理解することはできません」
奇遇だな。残念ながら俺にもさっぱり理解できん。
「まぁそう慌てず。順を追ってお話いたします。あなたは涼宮ハルヒさんを含め長門さんや私、
そして…」
古泉はそこで一度言葉を詰まらせる。一瞬目から笑みが消えたような素振りを見せたが、す
ぐにふっと鼻息のような短い笑いを見せて続けた。
「そして、朝比奈さんについてどこまでご存知ですか」
どこまでと言われても、原作やアニメの話しか知らん。
「アニメ? あっはっは、アニメですか。なるほど」
愉快そうに笑うと、前髪を指でぱらりと跳ね除け、
「そのアニメもしくは原作で私たちのストーリーはどこまで描かれていましたか」
そういうことなら任せてくれ。
俺は原作、アニメ問わず「涼宮ハルヒの憂鬱」について、知っている限りのストーリーを古
泉に解説した。
二期を希望していることも話すべきか悩んでいると、
「よく分かりました。涼宮ハルヒの…憂鬱、ですか。これは言いえて妙ですね」
またまたクックックとお腹を抑えて笑い始めた。何が可笑しい。俺の大好きなアニメ(原作)
のタイトルで笑うな、まったく。
「いや、失礼いたしました」古泉は微笑みにフェイス・チェンジを施したかと思うとすぐさま
真剣な表情へと切り替える。忙しい顔だな。
その真剣ver.フェイスを長門に向け、
「…ということは我々が高校を卒業した後の話までは伝えきれていない、ということになりま
すね長門さん」
「情報統合思念体も急激な情報圧縮に対して能力に限界があった。優先度設定が低い情報はこ
ちらに到達できていない可能性も十分にある」
と、ここで突如無言だった長門が口を開いた。
「…そうですか。しかし我々の高校時代の情報が届いていたのは幸いでした」
「その時間上の情報を最優先情報として構築したから」
「お手柄です、長門さん。さすがですね。これならなんとかなるかもしれません」
何言ってんだ? ハルヒ知ってる俺でも頭の中がアップアップ言ってやがるぞ。
「○○さん、我々はあなたが知っているその後、無事に高校を卒業しました」
そう言われても実感が沸かないな、今の見た目は高校生だろうが。よほどの童顔というわけ
でもないだろう。
「そうですね。違和感はあるかもしれません。とにかく、我々SOS団の面々は高校を卒業し
たのです。そして、その数年後に事件は起こります」
少し目を閉じているのは思い出しているのか。いったいどんな事件だ? ちょっと興味があ
る。訂正、かなり興味がある。
「あなたもよくご存知の人に…死が訪れます」
死、死だと?
「本当にくだらない事故でした」
死んだっていうのは…もしかして朝比奈さんか?
俺はさっき朝比奈さんの名前を呼ぶところで古泉が詰まっていたことを思い出していた。
「いいえ、違います」
「…………」
長門は無表情のまま再び中空を見つめたままだ。
…違うか。
そうか。
そうなのか。
まさかとは思ったが。
古泉はこちらの目を貫くかのようにじっと見つめていた。
俺は「涼宮ハルヒの憂鬱」の中でいつもぼやきながら振り回される主人公の名を呟いた。
「正解です」
そう言った古泉は微笑を保ったままではあったが、アニメでは見たこともない悲しい目だっ
た。
「事故については深く申し上げないでおきましょう。その頃の涼宮さんは非常に穏やかで、我
々も監視しているということ自体忘れてしまいそうな程でした。機関の人間も、ああ機関につ
いても既にご存知ですよね、もう能力は消えたに等しいと判断し、監視を続行することにさえ
異議を唱えるものもいました」
顔の前でゆっくりと手を組み古泉は続ける。
「そんな時に事故は起こりました。彼と涼宮さんは理想的な信頼関係を築いていましたので、
彼女のショックは計り知れません。もちろん、私たちにとってもそれは言葉にならない悲しみ
ではありましたが。ただ、私たちは悲しみに暮れている時間がさほど残されてはいませんでし
た。もし、涼宮さんにまだ例の能力が残っていたとしたら、それは、恐らく、世界の終わりを
意味するからです。今までに無い最大規模の危険が迫っていると機関は判断し、その準備も少
なからずしていたのですが、」
こちらをちらりと見て笑いだか溜息だか分からない息を吐く。
「そういった次元の話ではありませんでした。さすがは涼宮さん、とでもいいましょうか。閉
鎖空間? 新世界創造? いいえ、そんな話がかわいく思えてくるほどスケールの大きなもの
でしたよ。我々の想像の埒外、対応などできるはずもありません。きっと、彼女の精神の中で
は大きな思いや考えが巡り、それが渦となりぶつかり始めたのでしょう。彼が生きていた時間
に戻りたいと願ったかもしれませんし、だが同時に彼はもういない、この世を去った人間が生
き返るはずも無い、という常識的な考えも沸き起こったでしょう。もしかすると、彼のいない
世界など考えられない、そんな世界など無くてもいい。そんな風にも思っておられたかもしれ
ません。そういったあらゆる感情と想いが交錯、衝突し、そして…涼宮さんの精神は崩壊し始
めました」
そんなハルヒは見たくない、とぼんやり考える。
「恐らく、一般の人間からすれば大切な人間を失った時に起こる錯乱状態や放心状態に近いも
のでしょう。しかし、それが涼宮さんともなれば話は変わってきます。彼女の暴走した感情は
この世の中で唯一やってはいけない、曲げてはいけない真理を曲げてしまいました」
唯一曲げてはいけない真理?
「ええ。異世界との融合です」
異世界との融合ってどういうことだ。異世界? 閉鎖空間のことじゃあないのか。
「異世界と閉鎖空間はまったく異なります。我々から見た異世界とは、○○さん、あなたが生
きてきた世界などの事ですよ」
俺が生きてきた世界って…この世界のことか。
「この世界…とはもう既に呼べなくなってしまっていますが。名は体を表す、異なる世界です。
あなたが暮らしていた世界の他に異世界は無数に存在しますし、その無数という言葉の中には
我々が元々いた世界も含まれています。これら全てはコインの裏と表のような関係で、決して
触れ合うことはありません。先ほどやってはいけない、と言いましたが、できるはずがないと
言い換えても差し障りないでしょう。ところが、そのできるはずのないことをやってしまった
のが、涼宮さんです。彼女の悲痛な心の叫びは、我々の世界だけにとどまらず、周囲の異世界
までをも巻き込み大きな衝撃を発生させました」
ビッグバンみたいなもんか。
「ビッグバンなど、一つの世界の中で起こっている一つの現象に過ぎません。私がこれほど説
明に苦しんでいるのも説明できる枠を超えてしまっているからです。それぞれの世界たちは、
それぞれの決まりや法則を遵守して構成されており、その中にはきっと魔法を使って空を飛ぶ
事が当たり前な世界もあるでしょうし、全ての物が形を持たない世界もあるでしょう。まぁど
んなにあがいても、異世界の種類にどんなものがあるかなどと考えたところで我々は想像する
ことさえ不可能に近いですね。想像という行為でさえ我々は自分たちの有り物で行いますから。
想像しえない概念で構成された世界などは想像できません。そのままですが」
ふうむ。なんとも難解な話になってきたな。
「うーん、そうですね。こういうのはどうでしょう。あなたの世界に視覚という感覚があると
思います。仮に、視覚という概念がない世界、要するに──少し意味合いは変わってきますが
──全ての生き物が生まれながらにして盲目のような世界があったとして、その世界の住人た
ちに視覚というものを想像することは果たして可能でしょうか」
まだ分かりにくいが、まあ分かったことにしておこう。
古泉はいったい何時間続くんだという講義をまだ続けるつもりらしく、ふっと笑うとまたぺ
らぺらと話し始める。長門は依然何も話さない。
「というようにして、それぞれの世界は自分たちの決まりごとの範疇で成り立っています。そ
の異なる世界同士がぶつかり、融合したらどうなるかあなたに想像できますか」
何度もこの台詞を言わせたいのか、それともひょっとしたら真性のSっ気があるのか知らん
が、残念ながらこう答えるしか無さそうだ。
できん。
分からん。
なぜか古泉はそこでは一切笑いもせず、
「あらゆる矛盾と混沌が沸き起こり、そして間もなく消滅します。恐らくは」
恐らくってのはあのハルヒに出てくる古泉にしちゃえらく控えめな表現だな。
「そんなこと体験したこともありませんから。恐らく、としか申し上げられません」
古泉は肩をすくめておてあげのポーズを取った。
関係ないが、ようやくそのポーズを見ることができたよ。
「日本には日本の、アメリカにはアメリカの、カナダにはカナダの文化や法律が存在するでし
ょう。それを一つの国に無理矢理融合したと仮定してみてください。わけが分からない状態に
なり、やがて崩壊するのではないですか」
ああ、もう分かった。とにかく、違うモン同士混ぜこぜにしたらヤバいなってことだろ。
しかし、そっちのアニメの中の世界ってのは、俺の見た限りほぼ変わりがなかったぞ。こっ
ちと同じように学校もあるし電車も走ってるし。
「ええ、ご明察です」
古泉、満面の笑みを浮かべる。
「そのことについては後でご説明いたしましょう。話を戻しますと、涼宮さんがつくった激震
は、互いに干渉しあうことなく存在していたはずの異世界同士を激しく衝突させたと推測され
ます。異世界との衝突でこちら側の世界に大きな亀裂が入り、我々の世界自体の消滅も時間の
問題に思われました。割れた風船が空気を撒き散らして萎んでいくような、厳密には物体では
ないのですがイメージとしてはそんな画が適当でしょう。また、運よく消滅を回避できたとし
ても、どこかの異世界に吸収され、二つの異なる世界同士が融合してしまうことはもはや避け
られない状態であったのです。申し上げたように、異なる世界同士の融合はやがて崩壊への道
を辿るでしょう。つまり、我々の世界はどちらに転んでも消滅。消えてお終い、です」
頭が追いつかなくなってきた。しかし、言わんとすることは大体だが分かるような気もする。
「さて、ここで先ほどの我々の世界とあなたの世界が似ているということについてですが、こ
れは、事後に長門さんから教えていただいたことです。消滅の危機をいち早く察知した長門さ
んと情報統合思念体は、急いで最も近しい形態を持つ異世界を探しました。情報概念や物理法
則に近いものを持つ世界であれば、もしかすると融合しても崩壊までの時間がある程度稼げる
のではないか、というのが彼らの仮説でした。また、情報概念が近しいというのも非常に利点
でして、送った圧縮情報──これが最後の希望なわけですが──を解凍することが可能かもし
れないというわけです。もっとも普通なら異世界を調べるなんてことも不可能だったでしょう
が、激震によって生じた亀裂のような部分より、覗き見ることができた。そうでしたよね、長
門さん」
こいつは置き人形のようになっていた長門に突然話を振る。こっちがドキドキしてしまうじ
ゃないか。
「そう。初めて観測した。だから名称さえ定義されてはいない」
古泉はオーバーに眉を上げ「そして、」と続けた。
「そして、最も近しいあなたの世界に目星をつけ、長門さんと情報統合思念体が蓄積させた情
報を発信。あとは神のみぞ知る、うまく情報を受け取ってもらい、さらにうまく融合すること
ができ、もう一つ付け加えると時間的余裕が残されている、そんな状況になれば希望は繋がる。
いや、実に宝くじを当てるよりも自信のない賭けでした。ここまでで何か質問はございますか」
参観日に見事に手を挙げて正答した我が子を見るように、古泉は柔らかい笑みを浮かべる。
うーん、質問と言われてもなぁ。最初からもう一度頼む、なんて言うとさすがにこいつも怒
るだろうか。こんな宿題もまともにせん高校生つかまえて小難しい講義されても分かる話じゃ
ない。
弱った俺は、格好をつけるためにも無理矢理いくつか質問を用意してみた。当然、しなけり
ゃ良かったと後になって後悔したが。
「異世界ってのは、いわゆるアレか、異次元みたいなものなのか?」
シャクにさわることに、古泉はバカにする様子一つ見せず、丁寧に説明をしてくれた。
古泉によると、異次元というのはその世界の決まりごとの一つなだけで、三次元から見ると
四次元や二次元は異次元だという、そう言われればそのまんまな答えであった。
「じゃあパラレルワールドみたいなもんか」
と、知ってる言葉をただただ並べてみる俺。
こちらも古泉によるとだが、パラレルワールドというのは、一つ世界の中に収まるもので、
要するにある時空から分岐して伸びる並行した時空だとか並行した世界だとか、とにかくそん
な事を言っていて、ゲームを引き合いに出された。あそこでこうしていたらどうなるのか、と
いう時空も現実と同様に存在し、ああ、ちくしょう。とにかく異世界ってのとは全然違うんだ
とよ。
一通りの呪文を聞き終わり、三人の間には居心地の悪い沈黙がたゆたっている。
おい、長門でも古泉でもどちらか口を開いてくれ。俺は恥をかかない自信がない。よって開
かない。
「あなたが最後の望み」
どんな空気の読み方をしたのか謎であるが、長門が隙間風のような声で言った言葉に、俺は
「ふぇ?」と拍子の抜けた奇声を発することしかできなかった。
なんと言うんだろうかね。そんなセリフ今時悪しき魔王にさらわれた隣国の王女を救いに行
かされるRPGの主人公でも言われないだろう古ぼけたものだろうに、こともあろうか、こん
などこをとっても平均点以上でも平均点以下でもないごくごく一般的な高校生の俺が、よもや
言われることになろうだなんて、誰が予報しえたっていうんだ。
はい、予想してましただなんて言うやつがいたら後生だ、頼むからこれから先俺がどうなっ
てしまうのかもついでに予想してはもらえないものか。
俺は机の横でちょこんと正座している小さなヒューマノイド・インターフェースから目を上
げると、解説を求めて目の前のキザな男に再び目をやった。
「協力していただきたいんです」
こいつまでそんなことを言うのかという訝しげな表情の俺を察したか察していないのか、ま
たまたテレビアナウンサーのような流暢に淀みなく古泉は話し始めた。
「今、この世界は我々が元いた世界と、あなたが元いた世界が奇妙なバランスで融合し始めて
います。ただし先に述べた我々の仮説のように、それはいつまでも続きません。ともに近しい
世界同士ということもあり、辛うじて矛盾が最小限に留まっています。しかしその似ている部
分は似て非なるもの、一見共有しているかのようにも見えますが、所詮は異世界同士です。同
じ映像でもビデオテープとDVDディスクでは根本のデータ構造からして異なるのと同様、い
つしか破綻を起こすことはまず間違いないでしょう」
448 名前:駄作者[sage] 投稿日:2007/06/26(火) 10:05:20.73 ID:VQdflQ9v0
破綻というのが起こるとどうなるというんだ。どこかのお優しい省庁が再生法を元に一時的
に国有化してくれたりするんじゃねーのか。捨てる神ありゃ拾う神ありっていうだろうが。
「だといいんですが」
古泉は眉を上げて苦笑を浮かべると何を思いついたのか、将軍に黄金色の菓子を渡す悪代官
のような企みの笑みに変え、
「少しお待ちいただけますか。分かりやすく何かものを使って説明いたしましょう」
そう言うと、お待ちいただけるのかどうかの答えなど一切待たず、古泉は軽い微笑を俺に宛
がいアイボリー色の合皮ソファから立ち上がると、隣の部屋へと消えた。
広々とした部屋にぽつんと取り残された俺と長門は何をするべきか。何か会話でもしておき
たいところだが、と俺はどんな話題がいいものかと考えを巡らせる。ぽつぽつと頭の中に沸き
起こるアニメの断片は、思った以上に脆く稚拙でそのどれもが言葉にならなかった。
なぜかって?
キョンが死んだなんてことを言ってるんだぞ。いくら無感情そうにしていると言っても、こ
のヒューマノイド・インターフェースにはそれなりの微細な感情の起伏がある。
いや、残念ながら今の俺には分からんな。キョンのようにそんな些細な表面上の違いを検知
する鋭い観察眼はないも等しく、普通の女子生徒の感情の変化にすら気付かずに無神経な事を
言ってしまうようなクダラン男である。
長門にも微細な感情の、ってこれはあくまでも物語から知った情報にすぎない。しかしいく
ら俺が人の感情を察知できない凡夫だとしても、これくらいは分かる。
死んだ人間の話をホイホイと興味本位で楽しそうに聞いてくるような無神経野郎はぶん殴ら
れて然るに値する。
今この状況になって沈黙の中であらためて考えてみると、俺は「涼宮ハルヒの憂鬱」ってア
ニメ(原作)が好きなだけだった。そりゃあアニメのキャラクターが出てきたらだとか、アニ
メのような世界に行くことができたら、なんてよく言えば夢物語悪く言えば妄想を考えなかっ
たでもない。でもそんなこと考えるのは普通だろうが。カンフー映画を観たあとで、まるで自
分がカンフーの達人にでもなったかのような中学生的錯覚でもってアチョーだなんて奇声を上
げてものの数分暴れてみたくもなるだろ?
事実、正直に告白すると俺はこの部屋に着いたあたりまではワクワクしていた。さてどうし
てアニメのキャラと遊んでやろうか、次は何が見れるのだろうか、妄想や夢なんて類のものな
ら是非今しばらく覚めないでいただきたいと。
でもな、言っておくぞ。それは起こらないからもし起こったらって考えるのが楽しいんだ。
叶わないからもし叶ったらって夢見ることが素敵なんだ。それが少なくとも俺が今まで生きて
きた世界の健全なる姿であり、その中で想像することが人間の素晴らしい力だったはずだ。
アニメであるという大前提がそこにあるからの空想的な願望であり、こうやって実際に様々
なことを知っていくと興味が薄れてくるというか、思考回路がついていかないような一種の疲
労のようなものをおぼえる。
回りくどい言い訳はもうやめにしよう。結論から言う。
つまり、もういい、もう満足した。ということだ。
アニメのキャラクターがバカみたいにベラベラ話す展開にはもうたくさんだ。
「元の世界に戻りたい」
沈黙を破って俺が言ったのはその一言だった。
耳がキーンと痛くなるような静寂の中で響いた自分の声は、実際より大きく響いた気がして、
自分でも驚かされた。
俺は元の世界に戻って、課題やテストに頭を抱えながらアニメを見たり、アニメキャラがこ
の世界にいたらなぁなんて電波な妄想を繰り返し考えたり、あーだこーだとインターネット上
で同じ趣味を持つ者同士で話をしたり、間違ってもアニメに出てきそうにない普通の級友たち
となんでもない雑談に華を咲かせたり、嫌なこともあるけど嫌な事ばかりじゃない。そんな毎
日を送りたい。俺は俺たちの世界に戻りたい。
俺の声が部屋の空気を揺らして、ざわめいた空気の分子がまた安定化を図ろうとしたあたり
でゆっくりこっちに首を回した長門は、
「そう」
とだけ言った。
そして、その声と同時に隣の部屋に雲隠れをしていた古泉がようやく現れた。
「私たちもですよ」
古泉は手にソーサーに乗ったカップと、氷を浮かべたコーラのグラスを持っている。そいつ
をカチャカチャ小さな音を立てながら机に置くと、再び指定席である俺の前へと座った。
「まず現在の状態というのが、」
そういってアイボリー色の合皮ソファから少し身を乗り出すと、古泉は、
「コップに並々と注がれたコーラ。これがあなたがたの元いた世界だとしましょう」
俺たちの世界はコーラか。安く評価されたもんだ。こんなグラスに入った炭酸飲料がたった
今悶々とエンドレスな感傷に浸って考え込んでいた俺たちの世界なら、それがダメになりつつ
あるって今迷わず新しいものを買い求めるね。
「そして、私たちの世界はこのブラックコーヒー。遠めに見るとそれほど色は変わりませんが
当然味も中身も性質を異にします。突如カップに亀裂の入った我々の世界は見る間にコーヒー
が溢れ出しやがて空になっていくでしょう。消滅を避けるため、我々はこのコーヒーから数滴、」
ソーサーに乗ったスプーンでコーヒーを掬うと、ぽちょんと音を立ててコーラに入れた。
「アイデンティティを残すため、こちらの世界へ避難をさせて頂きました」
ますますソファから体を乗り出し、俺の顔を覗いて目を見つめながら言う。
ああ、これか。なるほどなるほど。キョンのご冥福をお祈りしつつ、あなたと同じ感想を以
て弔辞とさせていただこう。
真面目な声を出すな、息を吹きかけるな、顔が近いんだよ、気色悪い。
古泉は二杯、三杯とどんどんスプーンでコーヒーをコーラのグラスへ移し、
「ほら、ご覧下さい」
こいつが持ってきた時点ですでに並々と注がれていたコーラはグラスから溢れ、つーっとグ
ラス壁面を伝って机の上で薄茶色の液溜りを作っていた。
「このように溢れてしまいます。これがまず最初に起こる現象、重複する過剰な概念や要素の
欠落です」
欠落? 何か世界から無くなるってことか。
「ええ、もう既に欠落は様々なところで発生しています。やがてコーラともコーヒーとも取れ
ない奇妙な飲み物となり秩序を失ったグラスの中は崩壊する、というわけです」
じゃあこれを教えてくれ。なんで俺だ。他にいくらでもいるだろう暇な人間は。なんでこっ
ちの世界からの選抜代表に大抜擢されたんだ。何も勇者めいた行動はしてこなかったと記憶し
ているぞ俺は。
「分かりません。ただ、我々の送った情報をあなたは受け取りました。通常なら今この場のよ
うな実際の映像として到達するわけですが、ではどうして情報が歪曲されて伝達されたのか。
それは似ているとはいえ、情報概念が少し異なるからでしょう。文字で伝わるか映像で伝わる
か、文字だとしたら小説や新聞記事なのか、映像ならドラマ、アニメ、映画それとも実話。ど
んな形状でどんな媒体でどんな経緯で伝わるか、それはまったく予想だにできません」
歌舞伎や能で伝わってこなくて良かったよ。古典芸能はさっぱりだからな。
「融合の侵食によって影響を受けたこちらの世界の方々は、矛盾を無くすため我々の記憶を悉
く失っていきました。恐らくは全ての方がその記憶──いえ、記憶だけに留まらず記録や歴史
そのものを失っていきます。しかし、あなたはその記憶を保持していた。つまりあなたはコー
ラとコーヒーでごちゃ混ぜになったグラスの底に残る僅かな純粋なコーラなのですよ」
底に残ったって表現がむなくそ悪いとは言い出せずに古泉を睨んでいると、
「我々は、お互いの世界の分離、再構成を望んでいます。新たにカップとソーサーを作り出し、
グラスに混ざったコーヒーの成分だけを抽出し、戻す。あなたはその手順に不可欠な要素とい
うわけです」
もっと分かりやすく説明してくれ。今抜き打ちテストをされたら赤点は確実だ。
「そうですね。○○さん、あなたの元いた世界がX、我々の世界がYとしましょう」
今度は数学か。勘弁してくれ。
「いえ、数学ではありませんよ。これは考え方の問題ですから数式としては成立しえません。
イメージとして捉えると分かりやすいかもしれませんね。もう一度言います。あなたの世界は
Xで、Xは10個のxという要素で成り立っているとします。一方我々の世界はY。こちらも
Yは10個のyという要素で成り立っているとしましょう。しかし、10個のxと10個のy
が無秩序に混ざり合い、果たして世界は20個のzという要素を抱えたZへと変貌してしまっ
たわけです。ただ、どうやら一つの世界が内包できる要素の限界数は10のようであり、20
個のzは徐々に19、18そしていつかは10zに向かう。zというのはxとyの混合された
要素で、どういった割合で混合がなされたかは不明。しかしzだけだと思われたZの世界に、
xのままの形を留めた者がいた。それがあなたです。あなたはyをyと認識できる力と知識を
持ち、それは同時に元のxとyに分離させるための必須要素ともなります」
じゃあそのxが聞くが、他にxはいないのか。これだけ世界に人はいるんだ。何も俺だけっ
てことにはならないんじゃないのか。それにだ、そのx様は何をすればいいのか、何で自分が
xなのかもてんで分かっていない様子だぞ。
「もちろん、xは他にも存在するでしょう。しかしそれが人間だとは限りません。微生物から
動物、植物かもしれませんね。ただ、いたところで我々に確信を持ってそれらを発見できる能
力はありません。確信を持てるのは、唯一パイプであるあなたのみです」
なんか最初にもそんなことを言ってこいつが自己紹介を始めたのを思い出した。
「あなたが情報の受信元、そしてそれらの情報を拡散させ自分は自分の世界の人間だというこ
とを自覚していた。つまり、あなたは我々が送った情報、アニメだそうですが、それをあくま
でもアニメだと一番割り切っていたはずです」
それには異議を唱えさせていただく。俺はアニメでいろいろ妄想するアブナイやつだったし、
と自分でいうのはなんだか不本意極まりないが、ここは勢いだ、言ってしまおう。とにかくそ
んな自覚とは比較的遠いところにいた存在だったと思うぞ。
「本当にそうでしょうか」
古泉は意味ありげな含み笑いをこちらに投げかけた。さすがにリアルにこいつの笑みをこう
何十分も向けられると食傷気味になってくる。うっとうしい。
「あなたのもう一つの質問にお答えしましょう。我々が世界の器──先ほどのたとえ話のカッ
プの部分ですが──を再建するには涼宮さんが不可欠です。彼女の感情の中の一つ、彼のいた
時間に戻りたいと願ったからかどうかは定かでないにしろ、恐らくそういった力の作用により
彼女は今、高校時代へと戻っています。我々もその影響を受けたのか、それともこちら側の秩
序を守るためか高校時代になってしまっているようです。ともあれ、そういった状況ですが、
この融合世界が崩壊を迎える前に彼女の心に何かしらの衝撃を与えねばなりません」
衝撃?
「生きるに値する世界、」
そういって古泉は人差し指を立て、
「つまり希望です」
希望か。俺にはないような気がするがな。
ちょっと待て。じゃあキョンは? 高校時代ならキョンがいるだろう。それをハルヒに見せ
れば希望ってのがわくんじゃないのか。これは名案だろう、我ながら。
「彼はいません。これも涼宮さんの思いの一つの具現化だと思われますが、死者が蘇らない、
蘇っていいはずがないという常識の部分が彼の復活を認めはしませんでした。涼宮さんはそう
いうところだけは正常ですからね、悲しいことに」
もう一回ちょっと待て。おまえたちの世界ってタイムトラベルやらなんやらやってたじゃね
えか。それでおまえの言うところのそっちの世界に亀裂が入る前に戻ればいいんじゃないのか。
「着眼点は素晴らしいですが、不可能です。時間を移動できるのはこちらの世界の一つのルー
ルすぎません。異世界をも巻き込んだ最大の意味での全て、においては時間の流れというもの
は遡行しません。もちろん、その流れが時間というものなのかどうかも謎ですがね。とにかく
不可能です。それならば異世界にまで干渉する衝撃を生み出した涼宮さんに、同程度の逆なる
衝撃を与えればあるいは…というのが我々の仮説です」
なるほどね。電気イスで死んだ死刑囚にもう一度AEDで電気ショック与えたら生き返るん
じゃないのかってことか。
「実に例えが巧い」
そういって古泉は手の平をひらりと俺に向けた。それは光栄なことだな、まったく。
「そういうわけで、我々はSOS団を再結成させます。高校時代の容貌に戻っているのも都合
が良かった。当面様子を見て今後の策を検討していきますが、あなたにも参加しろ、とは言い
ません。あなたの意見を尊重いたしましょう。ただし、あなたはこちらの世界のオリジナル情
報です。涼宮さんが融合世界を分離させるのに必要な情報ですから、是非近くにいて協力をし
ていただきたい、と思っています」
そいつはいい報せだ。二連続で光栄の至りだな。
長々と講釈を聞き、最後に古泉が言った「それと、今の涼宮さんは彼のいない事実と時間逆
行の双方を論理的に説明するための妥協案としてか、記憶は彼のいない高校一年当初に戻って
いますから」という言葉を反芻させながら、ようやく空気の止まった部屋から出て生ぬるい外
気を吸えたことに少なからず安息の吐息を漏らしていた。
しかし、その安息だったはずの吐息は、周りの景色を見て大きな溜息へと変わっていった。
いや、暗くなっていたことじゃあない。そんなことはどうでもいい。古泉いわくこの世界の
ルール、ごくありふれた時間の流れってやつだ。問題だったのは周りの景色だ。
振り向いたそこはアニメで見た長門のマンションそのままであり、立ち並ぶ周辺の建物を眺
めてみてもどこなんだここは、と見たままの苦言くらいしか出てきそうにない見慣れぬ場所だ
った。
駅舎での愚痴をもう一度言わせてくれ。
家にさえまともに帰ることが出来ないようになったのか、俺は。
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もう二度と家に帰れないのではないだろうかと、溜息の中にも悲壮感を漂わせ、我が家をた
ずねて三千里の一里目をとぼとぼと歩き出すと、どうやら俺の世界名作劇場は視聴率低下によ
り早くも制作打ち切りと相成ったようで、隣の通りは駅前通りへと繋がる路地であった。
このレベルの低いゲームのようなバグは、どうやら古泉の言う欠落とかそういう現象なんだ
ろうな。それにしてもこの変化を不思議に思わずに通りを歩いてる人々を見ていると、原因不
明の孤独感、焦燥感に襲われる。いや、原因不明ではないな。原因は涼宮ハルヒの何者でもな
い。まさかこの現実の世界さえもかき回す存在だったとは。アニメの中だと思って油断してい
たぞ。どうだ、この電波な感想は。
駅前通りまで出ると、薬局が数時間で道へと変化していたことを除いては他におかしいとこ
ろはなかった。冷静に考えると寒気がしてくる。どうなっていくんだ、この世界は。今の日本
地図がどうなっているのかなんて考えたくもないな。それに、残念ながら今の俺に日本地理書
院の方々の疲労を心配している心的余裕はない。
自宅に着き自室の前まで来ると、部屋の戸の下から光が漏れている。
っておい。なんだか中から賑やかな声がするぞ。今度はどちらさんの登場だ。アポイントメ
ントという言葉を知らんのか、向こうの世界の連中は。
さあ、開けようかどうしようかと迷っていると
ドンッ!!
ガンッ!!!
外開きの自室の扉が突然開き、俺の鼻はマホガニーの扉と直接交流戦をすることになった。
勿論サポーターの応援虚しく、前半開始1秒で11名が負傷退場、俺は後ろに転ぶのを辛う
じて凌ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「あ」
「どうしたんです?涼宮さん?」
おい、何がどうなったらさっきマンションで話した野郎の声が俺の部屋から聞こえるんだ?
鼻を押さえながら、涙目で室内を見るとそこはまさにファンなら溜まらないハルヒワールド
勢ぞろいな賑わいを見せていた。
「これはこれは、さきほどぶりです○○さん」
出会ったその日に見飽きた微笑を浮かべながら古泉。
その横に座っているのは、会ったこともない人だ。SOS団の最後の一人であるその人は、
「え…あ…すいませぇん。お邪魔して…まぁーっす…」と言って苦笑いしている。
「あんた盗み聞きしてたの? いるならいるって言いなさいよ!」
一際ボリュームの大きな声が目の前から聞こえる。こいつについてはもう説明なんていらん
だろ…はぁ。たとえ五百歩譲ってだ、これを盗み聞きと呼ぶ行為であったとしても、勝手に自
分の部屋にいるやつを盗み聞いて何が悪いっていうんだ。
「どういうことなんだ、説明しろ古泉」
立ち上がって部屋に入り、ハルヒの手を引っ張ってそのまま床に座らせる。「うぅ」とか言
って睨んでるがこの際無視だ無視。
俺は鋭い視線を古泉から平行移動させ、その横にもっさり座ってるこれまたはじましてな男
に目をやった。顔をひきつらせてわざと目をそらしている。
「おい。お前は死んだとかって俺は聞いてるんだが」
「いっ!?」という濁音がつきそうな変わった声をあげてハルヒを睨みつけたあと、手でこ
めかみを押さえ、
「俺は知らん。無理矢理連れて来られただけだ」
いったい誰に尋問したものかと、部屋にぎっしり詰まったやつらを一人ひとり見渡す。
「さっ、もういいじゃない。これだけ揃ってるんだから、」
俺の横であぐらをかいていたハルヒが声援みたいな声を出す。
「なんかしましょう」
なんかとはなんだ。
「ね」
こっちを見て楽しそうな笑みを浮かべているが、そんなものはどうでもいい。それより説明
が先だ。やはり説明ならこいつか? 俺は古泉に再度目配せをする。
「大変申し訳ございません」と髪の毛を撫で付けながら、ごそごそと後ろに手をやっている。
「こういうことなんです」と苦笑いで差し出したテレビ画面大の大きな厚紙には、こう書かれ
ていた。
『釣りでした☆ SOS団』
はぁ? フリップから古泉に目を戻しても、それを持ったまま肩をすくめるだけ。
「ぶっはははははは!!!!あんた釣られたのっ、マヌケーっ」
と愉快そうに笑い転げるハルヒ。
「面白い人」
と小さな声で言ったのを聞き逃しはしないぞ長門。
「すいませぇん…」
謝られてもですね…朝比奈さん。
「…すまん」
あんたは本当に死ぬべきだ。
「申し訳ございません」
申し訳ないって言葉はその微笑をやめて言うべきだぞ古泉。
いったいどうなってるのか、頼む、誰か、説明、してくれ…。
ガヤガヤと笑いが沸き起こっている俺の部屋の扉がまたもや開いた。
全員の視線が扉に注がれる。
「うぃ〜っす、WAWAWA
涼宮ハルヒの降臨 終わり(?)
すいません
ちょっと息抜きに番外編を書いてしまいました orz
もちろん、今回投下分はお遊びおふざけであり、本編には関係ありません
たまにはこんなのもいいかな、と(;´Д`)
はい、すいませんでした
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もう二度と家に帰れないのではないだろうかと、溜息の中にも悲壮感を漂わせ、我が家をた
ずねて三千里の一里目をとぼとぼと歩き出していた俺に、朗報が入った。どうやら俺の世界名
作劇場は視聴率低下により早くも制作打ち切りと相成ったようで、隣の通りは駅前通りへと繋
がる路地であった。
このレベルの低いゲームのようなバグは、どうやら古泉の言う欠落とかそういう現象なんだ
ろうな。それにしてもこの変化を不思議に思わずに通りを歩いてる人々を見ていると、原因不
明の孤独感、焦燥感に襲われる。いや、原因不明ではないな。原因は涼宮ハルヒの何者でもな
い。まさかこの現実の世界さえもかき回す存在だったとは。アニメの中だと思って油断してい
たぞ。どうだ、この電波な感想は。
駅前通りまで出ると、薬局が数時間で道へと変化していたことを除いては他におかしいとこ
ろはまるでなかった。冷静に考えると寒気がしてくる。どうなっていくんだ、この世界は。今
の日本地図がどうなっているのかなんて考えたくもないな。それに、残念ながら今の俺に日本
地理書院の方々の疲労を心配している心的余裕はない。
結局、古泉はこれからどうするのかという具体的対策を一切言わず、俺の数奇な運命だけ教
えてくれたことになる。SOS団を再結成させる? 一体どうやって。まさか俺にハルヒを唆
させてこっちの世界で改めてってわけじゃないだろうな?
翌日、律儀にも学校へと向かった俺は、教室に入り開口一番後ろの席のやつにこう言ってや
った。
「喜べ。俺はどうやらごくありふれた男子高校生じゃないらしい」
不敵な笑みを浮かべ、ハルヒを見下ろしてやった。どうだ、おまえの望んだ異世界人だ。さ
あどうする。ストーキングでもしてみるか? それとも直接解剖でもしてみるか? 特に頭は
おかしくなってる可能性大だ。何か良からぬ新生物を発見できるやもしれんぞ。この際、どう
とでもなれ何であろうと受けて立ってやろうじゃないか。なんせ俺はパイプとかいう存在で、
世界をも救えるような……救えるような……ってあれ?
ふんぞり返って捨て鉢な事を並べ続けていた俺だが、ふとハルヒを見ると微動だにしていな
い。それどころか、こちらも向かずにぼんやりと窓の方を見ているではないか。てっきり「黙
れ嘘つくな、うるさいのよあんた」なんて鼓膜を破壊するような声が返ってくるものとばかり
思っていたが。
はて、これはいったいどうしたことだ。
まぁ俺はキョンでもないし、それほど芳しい反応が返ってくるとは思ってないが、ここまで
無反応とは意外であった。
静のハルヒ……なんだか物足りん。
仕方無しに鞄を机に掛け着席した。
一時限目の用意をしようとしていると「あんたさ、」と蚊の鳴くような声が後ろの席から聞
こえてきた。そこここで雑談が繰り広げられているこの教室では、ともすれば消え入りそうで、
よく注意しておかなければ聞き逃すところだった。
「ん」
「あんたさ、人の人生って全部平等だと思う?」
なんだ突然。哲学にでもハマりだしやがったのか、こいつは。
「あたし、どう考えてもそうじゃないって思う」
そりゃ不幸な人もいるし、幸せな人もいるだろうよ。でも反対はしないね。俺だってもう少
し頭が良く生まれたかったし、キャーキャー言われるような容姿を持って生まれてもきたかっ
たよ。
「願ってるだけじゃだめだと思う」
聞いてるのか、人の話を。
まったく。現実でもそうなのかこいつは。人の話なんてなーんにも聞いてねえ。おまえのお
かげでこっちはおかしなことになってきてるっていうのに……いや、それは言わないでおこう。
それは仕方のないことだ。誰だって大切な人が突然目の前から永遠に消えりゃ泣き叫びたくも
なる。
「きっとそれじゃダメなのよ……」
それにしてももう気のせいじゃない。
転校してきてからこっち、どこかハルヒっぽくないって思っていたのはハルヒがハルヒであ
るための一番重要なものが欠落してるからだ。一番重要なもの。それはその見た目でもなけり
ゃ不可解な行動でもない。ワガママな性格でもなけりゃ、なってない口の利き方でもないんだ。
どうしたんだよハルヒ。そんなのはお前じゃないだろう。アニメなんてまったく観なかった
男子生徒をどこまでも夢中にし、否応無しにひっかき回してくれたのはどこのどいつだ。腐っ
ても三点リーダなんて必要としないのがおまえじゃなかったか?
ハルヒはそこで黙ったまま、やがて始業のチャイムがごやごや五月蝿い教室に響いた。
なんだかそのままでは俺の気持ちがすまないので、昼休みにでももう一度話しかけてみるか
と思っていたが、チャイムが鳴り終わるとすぐに立ち上がり教室から出ていく。下校にいたっ
ては、チャイムが鳴り終わるのさえ待たずにさっさと姿を消す始末だった。
俺はどうすればいい。
ばかばかしい。
俺には世界を救うなんてことはもとより、何一つできんじゃないか。
何を聞こうと思ったわけじゃない。俺の足は昨日のマンションへと向かっていた。
周りに俺の立たされている状況を知るやつが一人もいないんだぞ? 状況が分かっているや
つと話をするだけでも幾ばくは気分が落ち着くだろう。
俺は昨日うろうろした道を今日もうろうろしながら、もう諦めようかと思い悩んだときによ
うやく目的のマンションを発見した。
あれからまたもや街の様子が変わった。……というわけではない。ちょっと飲み物でも買っ
ていってやるかと珍しく気を利かせ知らない交差点を曲がったのが間違い。あっちかこっちか
とできるだけコンビニがありそうな通りを目指していたら見事にロストマイウェーだ。
文句あるか?
もうすっかりアニメの中のそれであるマンションに滑り込み、ロックを解除するテンキーの
前で、708と押してからベルのマークが付いたボタンを押した。
それにしても今考えてみたが長門は「わたしたちの家」と言った。あいつら、高校生の分際
で同棲してやがんのか。しかも一番想像しにくいペアリングだ。古泉のやつめ、この世界が以
前のようにマトモな状態でなくて命拾いしたな。ああ見えて長門には数多くのファンがいる。
そんなことが知れた日にゃネット上から本当にお前関連の情報は消えるぜ。
俺は誰派とかじゃなく、ハルヒワールドが好きなだけだからまだ我慢できるがな。
……おいおい、まだか長門。
もう一度ボタンを押そうと手を伸ばしかけたとき、微かにサーというノイズ音が走っている
ことに気付く。どうやら既に繋がっているらしい。
試しに咳払いを一つして「あのー。昨日お邪魔した○○だけど」と短く告げてみた。
──沈黙。
「えーっと……いるんだろ長門」
──沈黙。
「古泉も一緒か?」
──沈黙。
「んー、いろいろ確認したい事があってまた来た。開けてくれないか」
やや間があって玄関口にカシャンというロックを解除する音が反響した。
『入って』
ふぅ。もしかしたら不在かと思ったが助かった。(俺が迷った分を差し引いても)結構な距
離があるというのに無駄足でしたではたまらない。
静かに上昇をするエレベータの箱の中で長門と古泉が会話するシーンを想像してみる。
『長門さん、お風呂が準備できました。先に入られては?』
『…………』
『読書中でしたか。これは失礼しました。では僕が先に頂戴してもいいですか?』
『…………』
『長門さん、果物を剥いてみました。お口に合うか分かりませんが』
『…………』
『長門さん、今日こんな本を見つけましてね。僕も読書でもしてみようかと』
『…………』
思わず笑いそうになってしまったが、一人箱の中でニヤニヤと笑っていては、それこそ妄想
癖のあるおかしなやつだ。やがて数字盤の階数表示が七階へと到達したことを告げると、昨日
連れて来られたとおりの廊下を進み、708号室の前まで来た。
ベルを押そうか扉をノックしようか、それとも声で呼ぼうか逡巡していると鉄の扉は無機質
な音を七階の廊下に流し音もなく開いた。中途半端に開かれた扉の間から長門の冷たい無表情
な視線が俺に注がれている。
「あ……よ、よう」
「…………」
ハハッと何に対してか分からん不気味な笑いを発しながら「入って」という声を待っていた
が一向にその言葉は聞こえない。鼻を啜ってみるもそれでもまだ聞こえない。マンションの遠
くを走っているであろう車の音さえ聞こえてくるほどの静けさ。この空気はどうしたもんかと
もう一度扉口にいる長門を見てみると……もうそこに長門はいなかった。
恐る恐る半開きの扉を自分で開けて顔だけ中に挿し入れ部屋の様子を窺ってみると、昨日と
同じ位置にちょこんと座っていた。きょろきょろと見回してみたが、古泉の姿は見当たらない。
今は長門だけ留守番でもしてるのか。
「っと……上がっていいか?」
部屋の中で静かに座っている置き人形のような長門は、呼吸しただけのようなそれはそれは
小さな頷きを見せてこちらを見ている。どうでもいいけどあいつ瞬きしてないんじゃないか?
靴を脱ぎ、部屋に入らせていただく。
「まだまだ暑いな」
となんとなく気まずさを解消するために世間的なことを言ってみたが、勿論反応などあるは
ずもなく、そんなところだけ「そうですね、とても暑いですね、ベリーホット♪」などと返さ
れても心臓が止まる可能性があるのでこれでよしとする。
部屋に入り、一応部屋の主であるこいつが床に座っているのに来客の俺が勝手にソファで座
ってふんぞり返るのもいかがなものだろうかとか、でも座っていいか聞いてもどうせ何の返事
ももらえないだろうしその場合余計に座りづらくなるのではとか辛気臭いことを考えていると、
「座って」という声がした。
「あ、うん。どうも」
しかし、長門と話しているとこっちまで言葉数が減ってくるな。
俺がソファに尻を沈めたのを見ると、すっくと立ち上がり、どこかへ歩いていく。
向かった先で微かな物音が聞こえるところを見ると、何か用事でもしに行ったのか?
しかし殺風景な部屋だ。ガランと広い部屋には無駄なものなど一切なく、足の短いテーブル
が一つにソファが一対。そういえば昨日は落ち着いて部屋の景色など見る余裕もなかった。き
ょろきょろと周りを見渡して記憶の中のアニメと比べ
「長門ー、ソファは増えたんだな。アニメの中じゃあ無かったよな。確かこたつだけだった」
ふーん。今はここであの長門が暮らしているのか。
もちろん、きっと古泉も暮らしているのだろうが、なんか腹立たしいので今はそれについて
考えない事にしておく。
キョンじゃないが、こんなところで暮らしてて寂しくないものだろうかね。コンビニに行っ
たついでにせめて何かこの部屋を賑やかすものでも買ってきてやれば良かったかと思い、よう
やく自分が飲み物を買ってきていたことを思い出した。
丁度長門がこちらへ帰ってくる足音が聞こえたので、そちらを振り向きながら、わざと明る
く、まるで今思い出したかのように言う。今思い出したのだが。
「あ、そうだ。飲み物適当に何本か買ってきたから飲もうか」
と、部屋の途中で立ち止まった長門を見ると小さくて白い手に丸い盆を持っており、その上
に急須と茶碗が一つずつ乗せられおどおどとしていた。無言でこちらを見つめている長門が静
止画じゃないってことは、急須から仄かに昇る湯気でなんとか分かる。
「そう」
と呟いてくるりと背を向ける長門。俺は慌てて手を伸ばしながら、
「あぁすまん。お茶煎れてくれてたのか。俺それもらうよ。暑い時は熱い飲み物の方がいいっ
て聞くし」
ゆっくりと歩いてまた消えかけていた長門はまたぴたりと止まり、さっきと同様のスピード
でもってこちらへ反転、
「そう」
と言った。
暑い、暑いぞ。
空調の効いたこの部屋でも俺は今なかなかの汗をかいている。
数分前に飲み干した熱いお茶がもう汗になったらしいな。そして俺の目の前のテーブルには
勿論熱々のお茶がもわもわと湯気を放っている。
長門はというと、またいつもの場所に座り俺の差し出したコンビニの袋から一つ一つペット
ボトルや缶のジュースを取り出し、一本一本じっくり観察したあと無言でテーブルの上に並べ
ていくという作業に大忙しのようだ。そりゃいったい何の儀式だ。
全てをテーブルに並べ終え、コンビニの袋を逆さにしてサッサッと小さく振りもう何も無い
ことを確認すると、今度は綺麗に横一直線に並んだジュースを眺めている。なんだなんだ。俺
何かマズいことでもしたか? それにしても、終始無言。俺も無言。
並べた中からようやく一つ手に取ったのでそれに決めたのかと思うと、袋に入れた。次のを
手に取りまた入れる。最後に一本テーブルの上に残し、ジュースの入った袋を脇に置くと、
「これ」
とだけ言った。
「あ、ああどうぞ」
選んだのは冷やしあめ。
ははは、やっぱりそれ選ぶんだな。置いてるコンビニ探してまで買ってきて良かったよ。
カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……とあるはずのない時計の秒針音が聞こえてきそうな静けさであるが、
実際に聞こえてくるのは空調の音と長門が飲んだ缶をテーブルに置くときのコトという小さな音、
それに俺が熱い茶をすするズズッという音のみだ。
実に不思議なもので、会話が飛び交っているときはできるだけ会話を途切れさせまいとするように、
逆に静寂のときはその静寂を守ろうとしてしまうものらしい。お、これはもしかしたら大きな発見じゃないのか。
人間にもあった慣性の法則だ。こりゃニュートンも驚きだな。
しかしいくら沈黙を守ろうとするといったって、
今日俺は話をしに来たわけであり長門の煎れるお茶をたらふくご馳走になりに来たわけでも、
長門がジュースを飲む様を観察しに来たわけでもない。
「古泉はでかけてるのか」
「…………」
「確か一緒に住んでるんだったな」
「…………」
「羨ましいね、女の子と同棲とは」
言いながらズズッとお茶を一口。
うん、なんとなく長門の扱い方にも慣れてきた。
「あなたも住む?」
突然返ってきた反応はともかく、俺はその内容に思わず感嘆符と一緒にお茶が口から
逆噴火しそうになるのをなんとか堪えた。大いにむせる。
な、なんだ、住むって俺に聞いてるのか。
長門や古泉と一緒に? この部屋で?
「人数に対する居住スペースは面積容積ともに十分」
いや、ま、そうかもしれないけどな。これだけ広いんだし。
いやいや、そうじゃなくてだな、いくら古泉がいるとはいえ一つ屋根の下というのは、
「わたし一人」